存在の耐えられない軽さ
ぼくはぼくという存在の軽さに耐えられない。赤く惨たらしい傷跡が残るぐらいに、ぼくの精神と身体を堅固な縄で縛りつけてほしい。息を吹きかけられるだけで、タンポポの綿毛のように、どこか見知らぬ土地に飛んでいってしまいそうだ。ぼくはぼくの存在の軽さが怖い。なぜなら、ぼくを止める根源的な重みが、この世界には欠如しているからだ。
存在の軽さ、吐き気、眩暈。蟻地獄の奥底には、揺蕩う煌びやかな光の交流があり、それは別の穴へと通じている。喘ぐ女の口、ヴァギナという穴、ガスコンロ、愛する君の瞳孔、タバコの灰皿。世界に張り巡らされたあらゆる穴という穴に吸い込まれ、ぼくの軽さは、生と死という始点と終点を越えた、輪廻の中で歓喜の歌声をあげる。エンター・ザ・ボイド。
存在とセックス
ぼくが「重み」を感じることの出来る瞬間、それは「セックス」*1 である。ベッドの上で彼に身体を強く抱き締められる。彼の体重がぼくの身体にのしかかり、呼吸が苦しくなる。静かに骨が軋み、彼の身体の熱が肌を嫉く。ぼくの「存在」にはっきりとした線が引かれ、ぼくと世界の間の境界線の曖昧さが、彼の荒い息と一緒にどこか遠くへ流されていく。ぼくは、この殺風景な部屋に置かれたベットの上で、朽ちゆく肉塊として「存在」を付与されている。
ぼくは「存在」している。たしかに、ぼくは「存在」している。ぼくはぼくであり、ぼくはぼく以外の何物にもなれないということ。すなわち、ぼくはこの自己存在の確証のようなものを、なんとか肌を介して理解しようと、もしくはその捏造に耐えようとしている。こうして、この肉体の痛み、熱、抗いがたい欲望と虚無感とともに。
彼の肉体が、ぼくの身体を犯す。ぼくの身体は、彼の身体を呑み込む。自己と他者が、肉体という壁を侵犯し、合一化を試みる。ぼくという存在を形成する境界が、ぼくの体内で蠢く他者によって掻き乱され、ぼくの「ぼくであり続けなければならない」という苦痛、この耐えられざる隘路に対し、一筋の光が降り注いでくる。
光の煌めきの心地良さの中に全てを放り出し、このままぼくという存在が瓦解する快楽、死というエクスタシーに身を委ねようと、ぼくは静かに目を瞑る。
だが、ぼくは依然として、この光を掴むことが出来ない。熱を持った彼の身体は、ぼくという強固な檻そのものをけっして破壊することなく、その手前で穏やかに姿を消す。ぼくの中で絶頂を迎えた彼、それは小さな死骸だ。冷たくなったその身体を緩く抱き締め、生者であるぼくは、彼の死を無言で弔う。
「軽さ」と「重さ」の間で膝を抱える
「セックス」という行為を経て、ぼくが痛感すること。それは「ひとはけっして繋がることなんて出来ない」ということだ。ここに、ぼくが「セックス」に執着する所以がある。思うに「セックス」との対峙とは、生と死、個の実存を考える試みそのものだ。猥雑で、無秩序、論理の彼岸にあるこの「何か」に目を凝らし、自分の心と身体に傷を切り刻まれる痛みを堪える。そして、ぼくという存在が「軽さ」と「重さ」の間で宙吊りになる瞬間、この裂け目に飛び込むということ。エンター・ザ・ボイド。
この広大な宇宙に放り出された一片の紙切れ。君とぼく。この孤独を噛み締めながら死に至るということ。勝手に点火された煙草を揉み消すのは、このぼくだ。君も同じだ。肌を重ねる彼とぼくが、同時に果てるということはけっしてない。彼の吐息が顔にかかる。彼はこんなにも近く、そしてこんなにも遠い。途方もなく無時間的で、唖然と立ち尽くしてしまうような、この断絶。自己と他者の間に横たわる、越えられぬ深淵の存在。ひとは孤独であるということ。こうした真理を真理のままに直視することが許された、類稀なる空間。ぼくは、それが「セックス」であると考えている*2。
『エンター・ザ・ボイド』
他者。ぼくが知りたいもの、それは他者だ。他者という存在が、ぼくを大きく揺さぶり、狂わせ、ぼくを呑み込んで無に帰そうとする、その瞬間、暴力性、至高の美。ぼくは他者に憧憬を抱く。そして同時に、他者に強烈な嫌悪感を抱き、それを排斥しようとする。この二重拘束の間で、ぼくはぼくとして如何に生きていくことが出来るのか。
すべては、ぼくという自我の餌に過ぎないのだろうか。他者は虚構なのであろうか。ぼくが「セックス」を通じて掴みかけた”あの謎”は、はたして他者だったのであろうか。彼と別れ、コートの上着のポケットに手を突っ込みながら、ネオンが煌めく歌舞伎町を、フラフラとひとりで歩く。そういえば、ノエの『エンター・ザ・ボイド』*3の撮影場所も丁度この辺りだったのではなかろうか。そんなことを、ふと考えた。
「アレックス」で物議を醸したギャスパー・ノエ監督が、東京を舞台に固い絆で結ばれた兄弟を描く作品。東京にやってきたばかりのドラッグ・ディーラーの兄オスカーと、ナイトクラブでストリッパーとして働く妹リンダ。ある日、オスカーは警察の捜査に遭い、拳銃で撃たれてしまう。遠のく意識の中、リンダのことを強く思ったオスカーの魂は現世にとどまり、東京の街をさまよい出す。
Opening Sequence - Enter the Void
突然の凶弾に倒れ、歌舞伎町の上空を浮遊し続けるオスカーの魂。彼はたしかに死んだ。だが、彼は個的生としての「存在」を越え、新たな「存在」の域に達したのであった。騒音とエロティシズムが詰まった歌舞伎町という町。ここで繰り返される、生と死、セックスという奔流を俯瞰する「存在」として、「無」へと還ったオスカー。
生即死、死即生、性即死、死即性。淡々とマントラを唱えながら、事後の虚無感に浸る内に、ぼくは気付けばオスカーに憑依されていた。ひょっとしたら、ぼくは既に死んでしまっていたりするのかもしれない。だって無頭人間だもの。以上。
*1:実際にセックス相手を作った結果、色々とポジティヴな(仮性アバズレをやるのは、やはり個人的に精神的負担が大きく、正直ポジよりネガの方が勝っているし、この理由をよく考えることこそが肝であるという認識は持っていますが)引っ掛かりが得られたので、その辺をベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』と合わせて考察してみたらまあまあ書ける事があるのでは、と考えています。長くなりそうなので、後に回します。
*2:参考までに、栗原のセックス観をどうぞ。 栗原康さんインタビュー(1)恋愛やセックスにルールなんてない…大杉栄と伊藤野枝の生き方から : Page 4 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)
*3:ぼくの人生史上もっとも衝撃を受けた映画かもしれません。ぼくが言語化したいことを映像化した場合、かなりこれに近くなると思います。当記事をこの映画についての解釈という体裁で締めなかったのは、「解釈」という試みをすること自体がこの映画の魅力を棄損するように思われたからです。