ぼくは諸法無我なんですよ

 

存在の耐えられない軽さ

ぼくはぼくという存在の軽さに耐えられない。赤く惨たらしい傷跡が残るぐらいに、ぼくの精神と身体を堅固な縄で縛りつけてほしい。息を吹きかけられるだけで、タンポポの綿毛のように、どこか見知らぬ土地に飛んでいってしまいそうだ。ぼくはぼくの存在の軽さが怖い。なぜなら、ぼくを止める根源的な重みが、この世界には欠如しているからだ。

存在の軽さ、吐き気、眩暈。蟻地獄の奥底には、揺蕩う煌びやかな光の交流があり、それは別の穴へと通じている。喘ぐ女の口、ヴァギナという穴、ガスコンロ、愛する君の瞳孔、タバコの灰皿。世界に張り巡らされたあらゆる穴という穴に吸い込まれ、ぼくの軽さは、生と死という始点と終点を越えた、輪廻の中で歓喜の歌声をあげる。エンター・ザ・ボイド

 

存在とセックス

ぼくが「重み」を感じることの出来る瞬間、それは「セックス」*1 である。ベッドの上で彼に身体を強く抱き締められる。彼の体重がぼくの身体にのしかかり、呼吸が苦しくなる。静かに骨が軋み、彼の身体の熱が肌を嫉く。ぼくの「存在」にはっきりとした線が引かれ、ぼくと世界の間の境界線の曖昧さが、彼の荒い息と一緒にどこか遠くへ流されていく。ぼくは、この殺風景な部屋に置かれたベットの上で、朽ちゆく肉塊として「存在」を付与されている。

ぼくは「存在」している。たしかに、ぼくは「存在」している。ぼくはぼくであり、ぼくはぼく以外の何物にもなれないということ。すなわち、ぼくはこの自己存在の確証のようなものを、なんとか肌を介して理解しようと、もしくはその捏造に耐えようとしている。こうして、この肉体の痛み、熱、抗いがたい欲望と虚無感とともに。

 彼の肉体が、ぼくの身体を犯す。ぼくの身体は、彼の身体を呑み込む。自己と他者が、肉体という壁を侵犯し、合一化を試みる。ぼくという存在を形成する境界が、ぼくの体内で蠢く他者によって掻き乱され、ぼくの「ぼくであり続けなければならない」という苦痛、この耐えられざる隘路に対し、一筋の光が降り注いでくる。

光の煌めきの心地良さの中に全てを放り出し、このままぼくという存在が瓦解する快楽、死というエクスタシーに身を委ねようと、ぼくは静かに目を瞑る。

だが、ぼくは依然として、この光を掴むことが出来ない。熱を持った彼の身体は、ぼくという強固な檻そのものをけっして破壊することなく、その手前で穏やかに姿を消す。ぼくの中で絶頂を迎えた彼、それは小さな死骸だ。冷たくなったその身体を緩く抱き締め、生者であるぼくは、彼の死を無言で弔う。

 

「軽さ」と「重さ」の間で膝を抱える

「セックス」という行為を経て、ぼくが痛感すること。それは「ひとはけっして繋がることなんて出来ない」ということだ。ここに、ぼくが「セックス」に執着する所以がある。思うに「セックス」との対峙とは、生と死、個の実存を考える試みそのものだ。猥雑で、無秩序、論理の彼岸にあるこの「何か」に目を凝らし、自分の心と身体に傷を切り刻まれる痛みを堪える。そして、ぼくという存在が「軽さ」と「重さ」の間で宙吊りになる瞬間、この裂け目に飛び込むということ。エンター・ザ・ボイド

この広大な宇宙に放り出された一片の紙切れ。君とぼく。この孤独を噛み締めながら死に至るということ。勝手に点火された煙草を揉み消すのは、このぼくだ。君も同じだ。肌を重ねる彼とぼくが、同時に果てるということはけっしてない。彼の吐息が顔にかかる。彼はこんなにも近く、そしてこんなにも遠い。途方もなく無時間的で、唖然と立ち尽くしてしまうような、この断絶。自己と他者の間に横たわる、越えられぬ深淵の存在。ひとは孤独であるということ。こうした真理を真理のままに直視することが許された、類稀なる空間。ぼくは、それが「セックス」であると考えている*2

 

エンター・ザ・ボイド

他者。ぼくが知りたいもの、それは他者だ。他者という存在が、ぼくを大きく揺さぶり、狂わせ、ぼくを呑み込んで無に帰そうとする、その瞬間、暴力性、至高の美。ぼくは他者に憧憬を抱く。そして同時に、他者に強烈な嫌悪感を抱き、それを排斥しようとする。この二重拘束の間で、ぼくはぼくとして如何に生きていくことが出来るのか。

すべては、ぼくという自我の餌に過ぎないのだろうか。他者は虚構なのであろうか。ぼくが「セックス」を通じて掴みかけた”あの謎”は、はたして他者だったのであろうか。彼と別れ、コートの上着のポケットに手を突っ込みながら、ネオンが煌めく歌舞伎町を、フラフラとひとりで歩く。そういえば、ノエの『エンター・ザ・ボイド*3の撮影場所も丁度この辺りだったのではなかろうか。そんなことを、ふと考えた。

「アレックス」で物議を醸したギャスパー・ノエ監督が、東京を舞台に固い絆で結ばれた兄弟を描く作品。東京にやってきたばかりのドラッグ・ディーラーの兄オスカーと、ナイトクラブでストリッパーとして働く妹リンダ。ある日、オスカーは警察の捜査に遭い、拳銃で撃たれてしまう。遠のく意識の中、リンダのことを強く思ったオスカーの魂は現世にとどまり、東京の街をさまよい出す。

 

エンター・ザ・ボイド : 作品情報 - 映画.com より引用

 


Opening Sequence - Enter the Void

 突然の凶弾に倒れ、歌舞伎町の上空を浮遊し続けるオスカーの魂。彼はたしかに死んだ。だが、彼は個的生としての「存在」を越え、新たな「存在」の域に達したのであった。騒音とエロティシズムが詰まった歌舞伎町という町。ここで繰り返される、生と死、セックスという奔流を俯瞰する「存在」として、「無」へと還ったオスカー。

生即死、死即生、性即死、死即性。淡々とマントラを唱えながら、事後の虚無感に浸る内に、ぼくは気付けばオスカーに憑依されていた。ひょっとしたら、ぼくは既に死んでしまっていたりするのかもしれない。だって無頭人間だもの。以上。

*1:実際にセックス相手を作った結果、色々とポジティヴな(仮性アバズレをやるのは、やはり個人的に精神的負担が大きく、正直ポジよりネガの方が勝っているし、この理由をよく考えることこそが肝であるという認識は持っていますが)引っ掛かりが得られたので、その辺をベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』と合わせて考察してみたらまあまあ書ける事があるのでは、と考えています。長くなりそうなので、後に回します。

*2:参考までに、栗原のセックス観をどうぞ。 栗原康さんインタビュー(1)恋愛やセックスにルールなんてない…大杉栄と伊藤野枝の生き方から : Page 4 : yomiDr. / ヨミドクター(読売新聞)

*3:ぼくの人生史上もっとも衝撃を受けた映画かもしれません。ぼくが言語化したいことを映像化した場合、かなりこれに近くなると思います。当記事をこの映画についての解釈という体裁で締めなかったのは、「解釈」という試みをすること自体がこの映画の魅力を棄損するように思われたからです。

やけっぱちに酒、泣きっ面に口づけを

近況報告

 

ツイッターの自称を「ぼく」に変えてみた

「俺」やら「私」やら「小生」やら、ありとあらゆる大量の自称をインターネットの海に放流し続けてきたが、結果的に「ぼく」に落ち着きそうである。

自称の不安定さは、私の自我の曖昧さ、統合のブレを直接的に反映したものであるように思われる。たしかに、依然のようにコロコロと自称を変え続けるのも、私らしさを表現するという意味ではこれまた一興であろう。

だが、現実世界での私の自我が孕む統合の失調性がインターネットという場に表出し、それがテキストという形でツイッターのアカウントに累積していく状態というのは、表出させた主体としての私がそれを見返す上で、あまり精神衛生上宜しくないという事に気付き始めた。それを踏まえ、導入した自称が「ぼく」である。

ぼく。確かに男性的である。だが「俺」ほど男性性の濃度の高さを感じない。「私」では女性性が強すぎるせいか、感覚が落ち着かない。「俺」と「私」の中間、あわいの部分を捉え、それを言語化した場合に、辛うじてしっくり来る自称が「ぼく」であった。

ぼく。公僕の僕、朴訥の朴。悪くないと思う。

 

メルカリで本を売り始めた

読まなくなった本や試験対策用に購入した教科書や問題集が自宅に山積していたので、小遣い稼ぎも兼ねてメルカリへの出品を始めてみた。

私の近所のスーパーマーケットには、ありがたい事にヤマト運輸の宅配便ロッカー(PUDO)が設置されている。おかげ様で配送に伴う細々とした作業もきわめて簡素である。わざわざ郵便局やコンビニエンスストアまで足を運ぶ手間も省ける。

注文が入れば商品を緩衝材で包み、それをサイズに合った封筒に入れ、封筒ごとロッカーの中に放り込む。手続きはこれだけである。マージン諸々を加味しても、中古品店に持ち込むよりは、まだ儲け分が大きいように思われる。

匿名配送が可能なので、個人情報のやり取りは一切存在しない。

顔も名前も知らない誰かに対し、淡々と私の所有物を送るという作業の、こうした人間味の無さ。そして、こうしたものに対して幾許かの心地よさを抱いてしまう私のこころ。既に何処かが壊れかかっているのかもしれない。治療法は不明である。治療マニュアルも存在しない。いや、何処かに落ちているのかもしれないが、落ちているとすれば、きっと私の視界には捉えられない類のものであろう。見えないものを見るより、見えると思しきものだけを処理していく。

この淡々としたリズムへの快感。ネクロフィリア

 

 丁寧な生活への下ごしらえ

来年から社会人である。そろそろ学生気分もある程度に留め、自己管理術を身に付けねばならないという危機感が迫ってきた。

私はどうやら、世俗、自己の生の双方に対する執着が弱いらしい。何事も俯瞰しがちである。良くも悪くも変に捻くれている。当然、日常生活を回すことに対する当事者意識も薄めである。気付くと部屋が散らかっていたり、後先考えることなく勢いでカネを散財してしまうことも多々あり、このままではまずいという認識を持って生きるフリを頑張ろうという気持ちが出てきた。自己への配慮。

いつまでも宵越しの金は持たねえ江戸っ子ではいられない。夢見る少女じゃいられない。独立自尊でいこう。

ということで、大雑把ではあるものの、金銭管理と自炊、仕事関係の資格の取得に励む事にした。体裁だけでもよい。そこまで中身を伴わせる必要はない。行動を習慣というフェーズに持っていくだけでも、長期的な視野から見れば大きな収穫に繋がり得る。習慣の無意識化。それが楽に生きるためのコツである。流水プールに流される享楽を得るためには、第一に流れを作らねばならない。回転寿司屋さんを開こう。

 

  • 金銭管理

Moneytreeを利用し始めた。過去にも家計簿アプリを数個ダウンロードした経験があるが、手作業入力に億劫さを感じ、結果的にMoneytreeに落ち着くことになった。

手持ちのクレジットカードや銀行口座、ポイントカードのほとんどを紐付けすることが可能なので、カネの流れを掴むのが圧倒的に楽になった。クレジットカードの延滞よ、さらば。私は資本主義の犬をやります。その辺をワンワン這いずり回ってるから見ててね。笑うなよ。こっちは真剣だぞ。臓物をくらえ。

  • 自炊 

自炊といっても冷凍食品の恩恵を大いに享けているので、自炊という範疇に入るのかは定かではない。ただ、研究室に持っていく昼夜の弁当を作るだけである。時間がある時に簡単なおかずを作り、それらをメルカリの発送作業の如く淡々と弁当箱代わりのジップロックに詰める。この繰り返しである。ジップロックなので、全て詰めた状態のものをそのまま冷凍出来るし、洗うのも楽だ。

料理という行為はけっこう好きだ。レシピ通りの材料を用意し、その通りに調理をしたつもりでも、大抵何かが上手くいかない。設計図と設計物のズレが、意図しない形で私の介在によって生み出されていくこの不思議な感覚。これが興味深いと思う。ただ野菜を切ったり、炒めたりして、具材の様子が変わっていく様子を眺めるだけでもこころが癒される。人間はどうしてこんなに複雑であろうとするのだろう。犬や猫や野菜を見習って生きればもっと楽になれるのに。臓物をくらえ。

  • 資格

特筆すべきことはない。何も楽しくない。スキマ時間を活用すればどうせ何とかなる。取得すれば会社から一時金も貰えるらしい。

今の内定先に長居するのかも定かではない。刺青が彫りたくなって退職願を突きつける可能性もなきにしもあらずだ。ということで、手持ちのカードは増やしておいても損にはならない。ない袖は振れぬ。要は振れる状態にしておくべきだ。

個として戦えるスキルを身に着け、絶えず自己鍛錬に励むというのが、現在の労働市場が要請する規範の一形式である。私はネオリベラリズムをやります。闘争領域に飛び込みます。全員ブン殴ります。力こそ全て。笑うなよ。こっちは真剣だぞ。臓物をくらえ。

 

最近の一曲


THE ROOSTERS / どうしようもない恋の唄

 

人間、みんな「死」に内定しているね

内定式に参加した

内定式早々、颯爽と遅刻した。

タイミング悪く人身事故が発生し、完全に足止めを喰らった。長々とバスを乗り継ぎ、職場の最寄り駅にようやく到着したかと思いきや、なぜか駅を間違えていた。

どうやら私には職場の最寄り駅を覚える脳すら無いらしい。酒の飲み過ぎで脳にガタが来始めているのかもしれない。いや、潜在意識が、労働という行為そのものを忌避している証拠なのかもしれない。もうどうにでもなれという心地だったし、既にどうにかしていた。

心、此処にあらず。

そういえば、振り替え輸送で利用した路線バスの車内は、やけに泣き叫ぶ乳幼児が多かった。ひとりの乳幼児が騒ぎ出すと、音叉同士が共鳴するかの如く、それにつられて周囲の乳幼児もぐずり始めた。気付けば、車内は大絶叫スカパラオーケストラ状態だった。

乳幼児たちといっしょに、私も暴れようかと思った。全てを破壊し、虚無に突っ走りたかった。気分は完全にゴキゲン・テロリストだった。公共交通機関の中で、突然全裸になってみたり、大声で意味不明な妄言を叫んでみたりしたら、さぞかし快感なんだろうな、と一人で妄想に妄想を重ねた。

心、此処にあり。

 

職場に到着した頃には、既に二時間近く遅刻していた。そういえば、ロシアのプーチン大統領は遅刻魔らしい。遅刻魔らしく、堂々と行こうと雑に気合いを入れた。気分は完全にゴキゲン・ネチャーエフだった。

内定者が揃う会場のドアを開けると、10人弱の男女がテーブルを囲むような形で着席していた。私が会場に入った瞬間、全員の視線が私の顔に向けられた。

もう帰宅したかった。好みの顔の男は誰もいなかった。一気にモチベーションが下がった。ひとり、内定者の中に、ショーツのラインをスラックスに響かせた女を発見した。お陰様で、少しモチベーションが上がった。束の間の贅沢、パンチラ、ゴディバのチョコレート。

 

 薄っぺらな内定証書と大量の書類を受け取り、同期の人間と雑な世間話を交わした。マッチング・アプリでお馴染みの会話パターンだと直感した。全てが薄く、浅く、平和だった。誰も傷を負わない幸せな世界だった。上っ面だけ整え、見て見ぬふり。パンドラの箱は開けず、こころには永遠にカギを。

続く懇親会では、役員のツッコミを適当にあしらい、営業スマイルを無料で提供し続けた。気分は完全にマクドナルドのクルーだった。いらっしゃいませ、マクドナルドへようこそ。赤べこ人形のように首を振り、それっぽく相槌を打ち、淡々とハイボールを飲み続けた。酒だけが救いだった。煙草が吸いたかった。

 

私はこの会社にいつまで席を置くのであろうか。いや、いつまで社会人らしい社会人という肩書を背負うのだろうか。内定式というタイミングで、早速この問いが頭に浮上してしまっていた。どうやら、既に私のこころは、きわめて明確に別の方向を向いているようだ。

この感覚だけが唯一の救いだ。感覚こそが全てだ。

 神無き世界に一つの真理を。真理、それは私が私であり続けるということ。以上。

 

 

何が私をこうさせたか

 

atamaganai.hatenablog.jp

 

atamaganai.hatenablog.jp

 

 

最近、思考実験の一環として、性的に都合の良い相手を作ってみた。

この関係性に名前を付すとすれば、それはセックス・フレンドであろう。だが、名称なんてどうでもよい。勝手にしやがれ。そんなものは退屈だ。

相手は一歳年上の社会人である。彼に交際相手はいない。とにかく聡明だ。私よりも数百段先から世界を俯瞰しているような彼の冷徹な眼差し、そして言葉の使い方に、直感的に惹かれた。勿論、恋愛感情は無い。

 

身体だけの関係だ。

セックス抜きのデートをした事は無い。そもそも、じぶんが男性とのデートに快楽を見出せるのかも定かではないが、楽しめるかどうかはさておき、彼とセックス抜きのデートをする事もきっと可能だとは思う。だが、ホテルで過ごす以外の彼との時間を求める気持ちや、彼の私生活への干渉を欲するような感情は、私の方には無い。なので、彼とは極めて欲に忠実な形の関係性をやっているつもりである。

彼の主観は、私には絶対的に分かり得ない。彼の目に映る私が単なるヴァギナであろうが何であろうが、そんな事は私には知ったこっちゃない。私は私の主観の価値付与に基づいて行動するだけである。主観間のズレを超越し、ただ性欲という一点の利害だけで、彼と私は繋がっている。雑味は要らない。アイスコーヒーに砂糖とミルクは余計である。単純なものは綺麗だ。

だが、単純に身体だけの関係で割り切れない何かが、私の中にはある。身体だけの、性欲処理を目的とするのであれば、わざわざフレンドという名の関係性を構築する必要は無い。ワンナイトで十分である。

男なら星の数だけその辺に転がっている。ただの男、それは記号だ。抽象だ。顔ナシだ。一晩抱いて、抱かれて、一生サヨナラだ。深いキスは要らない。目は合わせない。指は絡ませない。最低限の身体接触。必要なのはこれだけだ。度を越した行為、意味付けは、自己の領域を暴力的に抉じ開けられている心地がして、肌に不快感が纏わりついてしまう。最低限以上の行為が許容出来る相手と、許容出来ない相手との差異が何に起因するのかは、相手と共にいる際の空気感だけで何処となく感覚的に掴めるようになってきたというのが所感である。

刹那的な欲は、ベッドの端で吸う煙草と一緒に燃やし尽くすぐらいが丁度良い。料理の味が良かろうが、悪かろうが、旅先で偶然気の向くままに足を運んだ店には、よっぽどの事がない限り、再び足を踏み入れたいとは思わない。旅という非日常で生じた偶然は、偶然のままに放置しておけばよい。あえて禁忌を破り、非日常を日常に、偶然を必然に変えてしまいたいという例外的な意志が、私の中に生じない限りは。

しつこいのは嫌いだ。胃もたれがする。川は絶えず流れゆく。流れに抗おうとブイにしがみ付くよりも、瞬間瞬間に入れ替わりを繰り返す水の流れそのものに身を浸していたいと思う。場に固定される事、それは死に他ならない。

私は常に生を志向していたい。生、それは動き続けるという事、場に根を下ろす事を拒絶し、砂漠を放浪し続ける孤独者たれという事である。

 

 能動的不埒で、極度の人間嫌い。

それでも、こんな私があえて特定の関係性に入る不快さに耐えてまで、能動的に彼との交流を続けているのは、彼と一緒にいると形容しがたい癒しを感じるからであろう。私は彼を記号化したくなかった。彼の顔が見たいと思った。だから、偶然を必然という関係性に変えた。

私は、セックスという行為以上に、彼との会話そのものに居心地の良さを見出しているような気がするし、そうであるが故に、強烈な肉体的快楽を貪る事が出来るのかもしれない。

セックスも会話も、その密度やアウトプットの手法に差違はあれど、結局はコミュニケーションという他者との距離感の問題に収束する。間の取り方や、生のリズムが似通っていたり、内奥の思想の部分で共鳴が可能な相手とは、セックスも含め、コミュニケーションの相性が総合的に良い可能性が高いのかもしれない。仮に人間は各々固有のノイズを発しながら生活していると捉えた場合、このノイズの周波数が近似した人間の方が、自我同士を溶解させやすいし、チューニングの負担も軽く済ます事が出来るのでストレスが少ないはずだ。私のように、じぶんの自我の自閉性が極めて高い(というのは自我が他者性を排斥しがちな気質を備えているという趣旨であるが)が故に、オーガズムに至りにくい精神構造を備えている点を自覚している人間なら尚更である。

勿論、諸々の相性に関しては時間なり相互努力を通じて好転する事も大いにあろうが、やはり究極的には、人間は本質的な部分が鏡像のように自分と似通った相手に恋をする宿命なのではないかと思う。全ての愛は、他者を媒介に自己内に還流し、淀みを解消する為に新たな空気を求めて再び外へと絶えず流れ出して行くのだから。

彼の前では、不思議と、社会的属性やら年齢やら、私の身体を覆いつくす様々なコードの重さから遁走し、文字通り一糸纏わぬ姿の不格好なありのままの私でいられる気楽さ、独特のカタルシスの感覚がある。ただ、なぜなのかはよく分からない。上手く言語化出来ない。異性関係を意識せず、 責任という重みが纏わりついて来ないからこそ、ただの個として、赤裸々かつ大真面目に自分の思考を吐き出す事が出来るからなのかもしれない。恋愛というゲームの外に咲いた、コンクリートの隙間に押し込められた小さなタンポポを見つけたような気分だ。

 

私にとって、性欲と好意の境界線は極めて曖昧である。身体の関係を挟んだ上で、じぶんの心に依然として何かが残る相手。それが、恐らく私にとってのかけがえのない恋人候補に相当するのであろう。この論理で行けば、彼が恋人候補に相当するのは確かである。なので、彼の寝顔を見ている内に自然と涙が溢れ、彼の眼差しを独占したいという感情が胸に湧くようになったら、この関係にはケリを付ける。これが契約である。契約破棄の暴力性に酔い痴れるのは、小説の世界だけでよい。私の目の前には、生身の人間がいるのだから。

 

男女間に友情は成立するのであろうか。思うに、成立は可能だが、成立させる為には肉体関係を挟む必要がある。性的対象としてお互いがお互いを希求し合うフェーズを超克する事、即ち性差に規定される何かを超え出でる魅力を各々が見出す事に成功した場合、そこに友情なるものの花が咲くのではなかろうか。花が咲いた時点で、二人は既に男女ではない。そこに存在するのは、代替不能な個と個そのものだ。

私は女である以前に一人の個である。一切の還元化に抗う個だ。個であるじぶんを棄ててまで、女をやりたくない。嫌なものは嫌だ。この強烈な嫌悪感に、言葉を付与する必要はない。なぜなら、感覚以上に論理的なものは存在しないのだから。

個である事、そして個同士の繋がりの尊重を至上命題とした形で生をやっていく態度に取り憑かれた人間が、腰を下ろして取り組む究極的なテーマ、それが男女間の友情なのではないかと思う。

恋人、それはきっと私にとって最大の好敵手であり、そして一番の良き友人をも兼ねる存在なのかもしれない。そうでないと、私はやっていけそうにない。きっと壊れてしまう。

 

ホテルを出る前に、彼に対して毎度ハグを求めてしまうじぶんのこの感情に、何という名前を付けようか。いや、名前なんて要らない。私は彼の身体を貪り、彼も私の身体を貪る。利害のみで繋がった、流動的かつ開放的な関係性。名称無き世界の純潔さを守る為には、瞬間的な眼差しのやり取りだけで十分だ。以上。

 

マッチングアプリでまだ消耗してるの?

自己存在の物化,加速するスワイプ

先日,学期終わりの打ち上げと称して,ゼミの後輩と飲みに行った.

新宿歌舞伎町の雑居ビルの高層階に佇む某中華料理店.店内ではケニーGのBGMと,あちらこちらから飛び交う中国語が混ざり合い,何ともカオスな雰囲気が醸し出されている.どうやら故郷の味が楽しめると,在日中国人に人気の店舗であるらしい.

映画『ブレードランナー』に登場するネオン街の広告看板がそのままデザイン化されたような,レトロかつ退廃的な雰囲気の缶に入ったココナツジュースをストローからチビチビと啜りながら,独特のスパイスが効いた中華料理を箸でつまみ合う.

ゼミでの人間関係や,教授に対する愚痴,茫洋とした将来不安など,取り留めのない内容の会話を繰り返しながら,各々が各々の心に堆積した鬱憤を漫然と空に放り投げる.空に放り投げられたボールは,誰かの腕にキャッチされる事もあれば,そのままケニーGの甘いサックスの音色に吸い込まれて行方知らずになった事もあった.宛先の無い手紙を書くという事.気が向いたら誰かがわたしの言葉を読んでくれる可能性に身を委ねる事.読んでも読まなくても,存在しても存在していなくても構わない.そんな柔らかな空気感の中で,延々と対話を重ねるのは何だか心地が良かった.

レモンサワーだのハイボールだの紹興酒を飲み始める内に,対話と独り言の境界線が曖昧になり,わたしの中で,ケニーGのサックス,隣客が話す賑やかな中国語,目の前でマシンガントークを繰り広げる後輩の日本語の三つが,謎のグルーブ感を生み出し始めた.このままこの混然一体としたグルーブ感に乗り,タイのパタヤビーチにでも行って砂浜で全裸ダンスをしたら楽しいだろうなと一人で悦に浸っている内に,気付けば会話の話題は恋愛へと移り変わっていた.

 

「わたし,最近マッチングアプリ始めたんですよ.ペアーズなんですけど.」

後輩がわたしにスマホの画面を見せる.プロフに設定された顔写真は,彼氏から撮影してもらったとっておきの一枚らしい.華奢な可愛らしさと精悍さが入り混じった,何処かミニチュア・ピンシュアーを彷彿とさせる彼女の魅力を上手く捉えた一枚だった.そこには,わたしの知らない愛の残り香がした.

「へえ,そうなんだ.彼氏いるけど,やってんの?」

「そうなんですよ.夏休み暇だし.男遊びしとくなら今の時期しか無いかなって.それに,別に今の彼氏と結婚とか考えているワケでもないし.」

目にも止まらぬ早さでスマホの画面をスワイプする彼女.

形の悪い枝豆を瞬時に見つけ,レーンの外に放り出す食品工場の熟練プロレタリアートを彷彿とさせる,手慣れた手つきであった.暑い夏にはキンキンに冷えたビールが合う.そのビールに合わせる定番の肴の一つが,冷凍枝豆である.ひとがビールを飲むと枝豆の需要が生まれる.枝豆の塩気に釣られて何杯もビールを喉に流し込む内に,ひとは酔っ払う.酔っ払ったひとの内の何人かは,夏の暑さと酔いの勢いに任せて誰かをホテルに引っ張り込み,雑なセックスをする.循環型社会のお出ましだ.レーンから排除された枝豆たちは,誰の口に放り込まれる事もない.ただ焼却処分される.わたしの眼前で,闘争領域が拡大していた.

 「ふーん,たしかにね.悪い男もいっぱいいるから気を付けるんだよ.」

「あはは,もうすぐアプリでマッチした人と会おうと思って.」

夏を謳歌しようと奮起する彼女の姿にあまりの眩しさを感じ,わたしは手元に置いた自分のスマホ画面に目をやる.Tinderの見知らぬ男からのメッセージ通知が山積していた.〇〇さんとマッチしました,〇〇さんからメッセージが送られました.はあ,そうですか.

 

YOUは何しにTinderへ?

Tinderとは何か.世界最大級のライフスタイルアプリである.冷凍枝豆の,冷凍枝豆による,冷凍枝豆のための政治である.

この世界でのわたしは,唯一無二の存在者としてのわたしの叫びを押し殺す.同様に,わたしは他者のその叫びも押し殺す.Tinderという政治の場では,わたしは,そして貴方も,単なる冷凍枝豆として現れる.喰うか喰われるか.セックスするかしないか.ここで展開される一切が目的従属的行為だ.メッセージのやり取りも,カフェでの会話も,陳腐な愛情表現も,一切合切が究極的にはセックスという終着点を目指して行われる.「いき」な要素が介在する余地が無い,アナーキーのアの字も無い退屈な世界だ.逆に言えば,退屈であるからこそ,単純な二分法が跋扈するこの予定調和的世界は,現実世界が孕む微細な複雑性からの逃避先としては格好の場だ.たしかに暴力的で痛い.だが,暴力的であるが故に優しい.

そんな事を考えながら,わたしはTinderの消去と再登録を何度か繰り返している.つい先日,またTinderを消去した.こうした奇怪な動きを続けているのは,思うに,わたしの性自認の曖昧さに起因するように思われる.

わたしには強烈な性嫌悪と性衝動が共存しており,この二軸の間のバランスを取る事が思うように上手くいかない事が多い.(男性性優位だが)自分が中庸的存在であり,自己存在を埋め込む鋳型が社会的に付与される典型的なジェンダーロールと合致しないが故に,両極的な思考に自己を埋没させる事で自己そのものを解体してしまいたいという破壊願望を燻ぶらせている.性に対する極端な行動はその願望の表出形態の一つなのであろう.

わたしの心と身体はバラバラだ.人間の心と身体は,緊密に繋がっているようで,やはりバラバラだ.断片同士は時に<愛>を経て癒合する時もあろうが,わたしには少なくとも断片は断片に過ぎないように思われる.愛を伴うセックスの方が愛抜きのセックスよりも性的快楽の強度が大きいとは限らない.逆も然りである.マクドナルドのセットメニューの如く,愛,性欲,パートナーシップの三者を丸々綺麗に一セットとして購入する事が果たして幸福なのか.わたしには全く分からない.

わたしは, 冷凍枝豆ではなく,人間同士の対話の一バリエーションとして,敢えてTinder的なものと対峙する経験を経た反面教師的なカタチで,セックスという行為が孕む解釈の多様性を徹底的に考え抜いてみたい.心も体もバラバラなわたしが,バラバラであるが故に肌で感じる事の出来た虚無感,アパシー,快楽,そして自己愛と他者愛の歪なバランス.体力を削り,これらを言語化する試みが,如何なる帰結をもたらすのかは定かではない.だが,やってみるだけの価値はあると思う.我々は人間である以上,政治からは逃れられないのだから.冷凍枝豆を徹底的に拒絶する者こそ,セックスから逃げたらダメだ.以上.

就活を雑に振り返る

 

令和最初の夏にブログを更新する

令和最初の夏が来た.学生生活最後の夏である.

この夏の為に資金を蓄えておきたい所であったが,今年の前半期は就活と研究のダブルパンチで労働に精神を割く余裕が無く,結局懐が寂しい状況のまま夏季休暇が始まった.年金の支払い,就活の交通費,ストレス発散の為の遊興等で思った以上に出費がかさんでしまった.資金が無ければ今後にも響くので,短期バイトに数社応募したりみてはいるが,どうなるのかは不明である.

うだるような暑さと精神的不調のせいか,ベッドに身体を横たえてからも中々眠りに就けない.酒を飲んで頭を曖昧にし,明け方頃にようやく寝付く.そして設定したエアコンのタイマーが切れる昼前まで死んだように眠り,起床後,抑鬱気分が酷い時にはベッドに寝転んだ状態で天井を見上げるだのスマートフォンを雑に眺めたりして3時間程度ひたすら時間を浪費しているが,それ以外は基本的に図書館と研究室と自宅を往復する感じの日々を送っている.

修論を完成させねばという強迫観念が頭から離れない.しかしながらその割には研究に集中出来ていない.先が何も見えない.砂場に手を突っ込み,延々と手で砂粒を揉んでいる状況である.指導教官からダメ出しを頂戴し,自分という人間が目指すべき場所は,結局の所,研究ではなく創作にあるのではないかという漠然とした気付きを得つつあり,研究に対峙する自己の姿勢そのものに疑問を抱くという地獄に陥っている.焦り,ただ焦りがある.

ちなみに筆者の昨年の夏は以下のような感じであった.読み直す気は起きない.

atamaganai.hatenablog.jp

さて,このように呑気かつ雑に夏季休暇をやり過ごせているのは,就活に終止符を打つ事が出来たが故である.内定先を獲得してから,場合によっては夏季休暇中も就活を継続させようかと考えていた時期もあったが,元々の就活のモチベーションの低さも相まって,結局やらずじまいで終わった.とはいえ,就活の結果に関しては十分納得がいく結果が出たように思う.

以下,筆者の就活をごくごく雑に振り返ってみたい.筆者のスペック,そして大まかな就活の流れを示した後に,就活に関する雑感を書き記す.どなたかの参考なり気休めになれば,筆者としては嬉しい限りである.

 

筆者のスペック

・23歳,non-binary,文系院生(人文系)

・MBTIの判定は毎度INTP

・精神年齢の老けを指摘されがち

・口下手

・協調性の乏しさに自信あり

チョコモナカジャンボをよく食べる

・尖った靴を履く男とピータンが苦手

 

就活の流れ

・昨年末から就活の情報収集を開始

インターンシップへの参加,OB訪問の経験なし

・突然ピアスを開けまくり,髪を刈り上げにする

・就活市場解禁の3月に20社程度エントリーを開始

・志望業界は,公務員・団体職員系

・5月末内定

  学部時代,院生就活のスケジュールの多忙さも視野に入れた上で,プレ就活・社会経験の一環にでもなればと思い,民間就活を多少齧っていた.その為,就活に関してはM1の秋頃から考え始めようという程度の認識しか持ち合わせていなかった.

志望業界は上記のものに絞った.コンサルやマスコミといった業界に就職し,猛スピードで社会を回す虚無感に耐えられる気質が自分に備わっているとは到底思えず,私生活と仕事のメリハリに焦点を置く事が出来るかどうかに一番の焦点を置いた形で,志望業種を選択した.身内に公務員もしくは民間から公務員への転向者が多く,彼らから話を聞く中で,自分のメンタリティは民間向きでないと判断した部分が大きかったように思える.公平公正性,ある意味ではシステマティックな冷徹さ,非人間性が要請される職業理念の下で動く方が,自分の精神にとっては毛羽が立ちにくいのかもしれない.そんな事を考えてみたりもした.

就活生という立場であるにも拘わらず,ピアスや刈り上げといった,就活生として到底あるまじき行為に衝動的に走らざるを得なかったのは,就活で要請される規範と筆者自身の性自認との間で生じる摩擦の影響であったように思われる.摩擦で生じる熱を逃す場を,自分の身体の何処かに設けておかねば潰されそうだった.負けたくなかった.

就活中は,なんとか正規職に就かねば,ここまで自分に長々と教育投資をしてくれた両親に対して合わせる顔が無いというプレッシャー,社会に対する諦念,そして自らの性自認への怒り,という三つ巴のせいで精神が殆どキていた.就活の合間に,ドトールで煙草を吸いながら,擦り切れた就活カバンに放り込んできた田辺元やらマラルメやらを捲っていると,「わたしがやりたい事はこんな事じゃねえのにな」という自嘲の念が沸々と込み上げ,世界がヘンに明るく歪んで見えた.

エントリー数としては20社程度であったように思う.選考を中途辞退した企業も数知れない.もちろん仮病も使った.ES,適性検査,面接,GD等々一通りは経験したが,全体の傾向としては最終面接前で落とされるケースが多かったように思う.祈り,そして祈られた.就活という不条理は「神」の変種であり,そしてリクルートスーツを着こなす「わたし」という存在は,神に対して「なぜ」という問いをギャアギャアと喚き続ける義人ヨブの百番煎じであり,世界はこれからも飽きもせずに無数のヨブモドキを産出し続けるかと思うと,無性に笑いが止まらなくなった.

何だかんだ愚痴を吐きながら就活を続けた結果,自分の希望条件にきわめて適合した職場から内定を頂戴する事が出来,あれこれ迷いに迷い,最終的にいまの形に落ち着いたという感じである.以上.

 

就活の雑感

さて,これまでは筆者自身の就活の経歴を雑に振り返ってみたが,ここからはもう少し「文系院生」という社会的立場を意識した形で,就活の雑感を述べる事にしたい.なお,以下「文系院生」と表記しているものは文系院生修士課程を指す.

一般に,学部生と比較した場合,文系院生の就活は厳しいという論調がある.

だが,思うに,就活市場において文系院生という社会的立場が不利に働くかどうかは正直定かではない.何にせよ企業への採用希望者の総数において文系院生の割合はごく少数派を占めており,企業側も文系院生の扱いそのものやそのスキルの価値判断に不慣れである可能性が高いからである.あくまで就活の場で問われるのは,学部卒,院卒,既卒関係なく,個人の力量そのものであり,文系院生という社会的立場そのものが人材の市場価値を大きく左右するかどうかは未知数である.

ただ,学生を人的資本という観点から捉え直した場合,文系院生の就活に関しては多少懸念すべき点があるのではなかろうか.まず,就活市場での優先採用順位について考えてみよう.就活はあくまで個人戦であるという点は明記しておくが,内定獲得に影響を及ぼし得る潜在的な要素として,各人の学歴・社会的立場を考慮に入れた場合,試しに以下の案を示してみたい.もちろんこの順位に関しては,各々の専攻している学問の差異に起因する部分も大きいと思われるが,今回は立ち入らない.また,学部卒の文理区分に関しても同様である.

学部卒・男≒理系院生・男>学部卒・女≒理系院生・女>文系院生・男>文系院生・女

上記順位付けの基準の第一が,性別である.

就活戦線において,女性は男性よりも不利な条件を負わされ得ると考えられる.なぜなら,企業側の立場から捉えれば,結婚や出産,配偶者の転勤に伴う女性特有のライフステージの変化を考慮した場合に,男性よりも女性の方が人的資本としてのリスク管理が難しいからである.

いくら男女平等社会の実現を目指す施策が社内レベルで採用されようが,この点は変化し得ないであろう.我々は単なる人的資本に過ぎない.自社に長く勤め,効率的に利潤を生みだす事を妨げる要素を保有しているものはリスク管理の見地から敬遠される.その要素の筆頭として挙げられるものが社会的・生物学的差異としての「女」である事は否定し難い.

だからこそ,女性特有の人的資本としてのリスクの高さを逆手に取り,総合職としてバリバリと男性同等のキャリア構築に勤しむのではなく,あえて一般職を目指す事でライフワークバランスの充実を図る戦略を取る女性陣も一定数存在するのであろう.女性にとって総合職と一般職のどちらが望ましいのかは,各人の人生観なり幸福感なり女性というモデルへの適合具合によって大きく左右されるものであろうし,筆者が口を挟むべき観点ではない.各人が各人なりの幸福を胸に抱ける社会が到来しますように.アーメン.

そして第二に,学部卒と院卒の区分が挙げられる.両者の間には,当然給与額の差が発生する.院生が修士二年間というごく限られた時間で身に付けたスキルを,学部卒との対比を意識しながら,企業側に対して明白に可視化・数値化した形で示す事は正直きわめて厳しい.特に企業の求める「即戦力」に転化しにくい性質の学問であればあるほど猶更であろう.文系院生,人文系,ああ…….

「大学出のピチピチした兄ちゃん姉ちゃんに比べて,ヘンに年食って頭でっかちの君ら院生にはあえて多くの給与を払わなアカン.更に君らは社会人経験も二年間の遅れを取っているワケで,その間の教育コストも更に負担せなアカン.そこまでを加味した上で,君らを雇うメリットはあるんか?」

という感じで採用担当者からブン殴られた場合,院生は,その中でも特に「社会的生産性」なるものに違和感を抱きがちな方の文系院生は,採用担当者をブン殴り返す強固なロジックを構築する事を意識せねばならないであろう.具体的かつ印象的に,ディズニーランドのキャストの如く明るく元気よくハキハキと,そして協調性の高さをフル演出せねば,就活市場にて潰される可能性は高まると思われる.実際筆者自身が上記の試みを実践に移せたかは定かではない.

 以上を踏まえた上で,就活の雑感を更に雑にまとめよう.

少数派であれ,多数派であれ,就活というフィールドで戦う上ではみな同士である.しかしながら,自分が少数派に属する場合,多数派に対して適用される価値判断の枠組みに対し,どういった態度で行動すべきか,という点を絶えず問い続ける事が肝要になるであろう.枠組みにノるべき時にはノリノリでノってもよい.あえてハズして差異化を試みるのも悪かない.こうした一連の戦略をどのように組むのか.そこがまさに少数派にとっての腕の魅せ所である.

就活を終えたみなさん,ほんとうにお疲れ様.就活を継続しているみなさん,自分を信じればきっと道は拓けます.これから就活をするみなさん,地獄へようこそ.

鈴と,小鳥と,それからわたし,みんなちがって,みんないい.おわり.

[夢日記]2019/07/06

夢日記

東南アジアの某リゾート地. 湿気が肌に纏わりつき,呼吸をする度に妙な不快感に襲われる.これが旅行なのか,はたまた出張なのかは定かではない.男を同伴させていたような気もするし,一人で現地に赴いた気もする.シラフであるような気もするし,何杯かラム酒のショットを喉に流し込んだお陰で気分が高揚しているような気もする.この場に自分がいる根拠の一切が欠落している.一切が分からない.

赤色の下地に黄色のハイビスカスが大きくプリントされたノースリーブのロングドレスを着用し,いかにも観光客らしい装いでホテルの中を漫然と散策していると,突然私の目の前に二人の少女が現れる.

片方の少女は,3歳程度であろうか.覚束ない足取りで,周囲をキョロキョロと見回している.真横には,彼女が好奇心に任せて何処かに行ってしまわないようにその手を強く握る小学校低学年程度と思しき少女がいる.姉であろうか.しかしながら姉にしては全く顔が似ていない.

しかし,である.私は気付いてしまった.年上の少女が身に纏っているドレスが私のものと瓜二つである事に.そして彼女のスッキリとした二重に妙な見覚えがある事に.彼に似ていた.彼.あの彼であったような,この彼であったような,その彼であったような.あれ,違うか.あれかこれか,あれもこれも.ここでも私の記憶は釈然としない.

 野生の勘であろうか.私はこの少女が自分の娘である事を瞬時に悟った.その彼女の口からは何の言葉も出てこない.年下の少女の手を握りしめた状態で,ただ私の目を直視したまま微動だにしない彼女.

本能的に恐怖を感じ,私はこの場から逃げようと必死で自分の脚に「動け」と命じる.このままでは殺されてしまう.逃げねば.そんな私を嘲笑うかの如く,私の脚は微動だにしない.私の心と身体は完全に接続不良状態に陥っていた.

得体の知れない恐怖感に全身を縛られ,眼前の少女と無言で視線を交わらせた状態のまま,どれぐらいの時間が経過した頃であろうか.

またもや唐突に一人の中年女性が現れ,少女らの隣に立ち,私に向かって堅い表情でこう語りかけた.

「貴女は彼女たちの母親ですよ」

「ああ,はい,そのようですね,まあ,そのように存じ上げております,ウフフ」

おい自分,ウフフじゃねえだろ.笑ってる場合じゃねえだろ.何ニヤニヤしてんだ.しっかりしろよ.壊れたように私は私に対して突っ込みを入れ続けるが,何故か笑いが止まらない.私は完全に崩壊していた.セルフコントロールとは無縁の世界よ,こんにちは.

そんな私の様子を見かねたのか,年上の少女は中年の女に向かってこう告げた.

「これが私のママなんですね」

そう言い放ち,彼女の顔が中年の女から私の方に向き直る.彼女もニヤニヤしていた.侮蔑を通り越した満面のニヤケがそこにあった.

流石私の娘だな,やるやんけ,といった感じの浅薄な感想が頭に浮かび上がるやいなや,ようやく私に待望のセルフコントロール感が舞い戻り,私の脚は私の言う事を懇切丁寧に聞く輩に成り下がってしまった.退屈な世界よ,ただいま帰りました.終.