楽しい就活日記

就活と恋愛

大昔に参加した企業説明会にて、某大企業の人事がこんな事を口に出していた事を思い出す.高身長・イケメン・大企業勤めという世間が羨むスペックをフル装備した彼の口から出た言葉は、やはりチャラかった.さぞかし女を口説くのにも手馴れているのであろう.そこにはチャラさ故の確固たる強さが在った.

 「就活ってね、恋愛みたいなもんだよ.少し付き合ってみてウマが合わなきゃ解散.偶然ウマが合えばトントン拍子でピンと来て運命的に結婚.そんな感じだよ.そんな感じ.」

  小綺麗な嘘を並べ立て、面接官に尻尾をブンブンと振る小芝居を済ませ、颯爽と会社を後にする度にわたしの脳裏に浮かぶのは、決まってこの言葉であった

 

「君のスキルは是非ともウチの部署で存分に活かしてほしいね」「ウチのような所には君のような人材が必要だね」だの云々、面接官はわたしの顔を眺めながら歯の浮く様な台詞を次々と投げかける.勿論わたしもマンザラではない.お世辞であろうが、誰だって他者からチヤホヤされれば悪い心地はしない.ニンゲン、それは「ニンゲン」という抽象概念の皮を被った単なる卑猥な承認欲求の怪物に過ぎないのだから.町中が生殖器だらけである.俺もお前も生殖器

こうした甘いオベッカに乗せられ、次の選考フローへの期待を胸にボンヤリとスマートフォンを眺めている時に限って、届くのは大抵不採用通知である.

まるでヤリ捨てされた気分である.所詮わたしは身体だけだったのね.一晩だけの性欲の捌け口の為の女だったのね.酷いわ.泣いちゃうわよ.女のわたしがわざわざ泣いてやってんのよ.こっち見なさいよ.わたしは貴方の事を愛してたのに.あっ、そう.はい次.

 

「時間とカネの不合理な搾取.徐々に減っていく預金残高.止められるクレジットカード.煮え切らないビミョーなセックス.就活ってそういう感じだ.そんな感じだよ.そんな感じ.」

 

運命という悪夢

はたしてわたしは運命の就職先、運命の恋人、そしてトントン拍子を合間に挟み、運命の結婚相手との邂逅の機会に恵まれる事が可能なのであろうか.

運命.ひとは言う.これは運命であったと.我と汝の出会い、そしてこのナニモノにも代えがたい愛は、必然に他ならないと.嘘つけ.

わたしが思うに、運命とは夢のようなものではないかと思う.渾沌、不確定性、偶然性の集積物としてのこの世界に対して運命の存在を声高に訴える事、それは必然という<意味付け>を経る事で世界という不合理から目を背ける行為なのではなかろうか.

電車に乗ると、ひとはノイズキャンセリングのイヤホンを耳に突っ込み、周囲の雑音を能動的に排除する.イヤホンから”美しく組み立てられた”心地の良い旋律が流れ出し、ひとは思わず目を瞑る.そうこうしている内に睡魔に襲われる.電車の揺れを感じ、ふと重たい瞼を持ち上げると、最寄り駅はすっかり遠ざかってしまっている.また逆方向の電車に乗り直せばよいと、もう一度目を瞑る.

夢を見る事、それは幸せである.現実、そしてこの世界の醜悪さを一時的に忘却の彼方に押しやる事が出来るのだから.しかしながら、夢の中で生き続ける事、暖かな羽毛布団で身を包み続ける事、愛という共同性に個を融解させる事で<わたし>からの逃避を企てる事、それは真の意味で幸せなのだろうか.

わたしは敢えて不幸せであり続けたい.運命という夢の微睡に身を任せず、現実というノイズ、不協和音にズタズタに引き裂かれ、血だらけになって死のうと思う.

 

運命の就職先、運命の恋人、運命の結婚相手.くたばっちまえ.以上.

 

無題Ⅰ

  • セックス.過剰エネルギゐの蕩尽.生殖という目的合理性の連環から逸脱した純粋なる<意味の欠如>.

 

  • わたしの愛すべき<意味の欠如>.愛すべきわたし/の.意味.rien.

 

  • 女性器に対する男性器の挿入という始原的暴力性.全ての始り.この全ての始り、<革命なるもの>を哄笑し、完膚なきまでに叩き潰さねばならない.始点と終点なき線分、線分を描く手に込められたエネルギゐの揺れ動きそのものを直観せねばならない.

 

  • 隣で寝息を立てる男の顔.のっぺりとした.特性なし.

では能面の様式はどこにその特徴を持っているであろうか。自分はそれを自然性の否定に認める。数多くの能面をこの一語の下に特徴づけるのはいささか冒険的にも思えるが、しかし自分は能面を見る度の重なるに従ってますますこの感を深くする。能面の現わすのは自然的な生の動きを外に押し出したものとしての表情ではない。逆にかかる表情を殺すのが能面特有の鋭い技巧である。死相をそのまま現わしたような翁やの面はいうまでもなく、若い女の面にさえも急死した人の顔面に見るような肉づけが認められる。能面が一般に一味の気味悪さをえているのはかかる否定性にもとづくのである。

和辻哲郎「能面の様式」、青空文庫より直接引用.強調部筆者.(https://www.aozora.gr.jp/cards/001395/files/49907_41924.html

 

  • 代替不可能性.「君なしで僕は生きられない」と<君>に呼びかける<僕>の眼差し.<僕>の眼差しを<君>から惹き付けてやまないもの、それは<君>という諸属性の束、万物のコラージュの一片に由来するのか、はたまた、あるいは、ええと、沈黙.

 

  • 語り得ぬものには沈黙せよ.汝告解する勿れ.

 

  • 一切合切が虚偽だ.清々しいほどに虚偽だ.就職活動にて面接官という神父に告解を求められ、口から出まかせの嘘をポップコーンの如く噴射する<わたし>.性的快感に身を捩らせ、女という憎々しい存在に徹する自分の姿を俯瞰する事に最高度の享楽を見出す<わたし>.<わたし>は道化であり、ペスト菌であり、女であり、<わたし>ではない.さようなら.

 

働かざるもの食うべからず

就活

 さいきん、大雑把に就活を始めた.

大人らしい大人は「就活は人生の大きなターニングポイントなんだから、真面目にやりなさい」とわたしに喝を飛ばし、そしてわたしを酷く軽蔑するであろうが、わたしは子どもであり続ける事に固執する大人なので「それはそれ」として大雑把に受け流す所存である.この世界が在るのは必然ではない.偶然である.大雑把な世界には大雑把な態度で挑むぐらいが丁度よい.

たまに堅苦しいリクルートスーツを着て会社説明会に足を運び、赤べコのように首を縦に振り、説明会が終わるとそそくさと会場を出て高層ビルが林立する町を履き慣れないパンプスでトボトボと横切り、フラフラと地下鉄に乗り込む.ひとマス進んでふたマス戻り、さんマス進んでふたマス戻る.はい、もう一度元気よく.

 人間は類的存在である.生きる為には働かねばならぬ.生きる事、それは他人様に迷惑をお掛けする事だ.わたしは穀潰しにゃなりたかないし、だいいち座敷牢に閉じこめられる勇気があるわけでもない.だからわたしは働く.働いて働いて働くつもりである.爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦󠄁相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博󠄁愛衆ニ及󠄁ホシ學ヲ修メ業ヲ習󠄁ヒ以テ智能ヲ啓󠄁發シ德器ヲ成就シ進󠄁テ公󠄁益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵󠄁ヒ一旦緩󠄁急󠄁アレハ義勇󠄁公󠄁ニ奉シ以テ天壤無窮󠄁ノ皇運󠄁ヲ扶翼󠄂スヘシ是ノ如キハ獨リ朕󠄁カ忠良ノ臣民タルノミナラス又󠄂以テ爾祖先ノ遺󠄁風ヲ顯彰スルニ足ラン .

とはいえ、仮に職に就けたとしても、新人教育、略して新教(プロテスタント)に耐えられる精神性をこのわたしが備えているとも到底思われないので、結局何処に転んだとしても行く末は今まで通り相変わらず地獄であろう.

世の中には新教に適合的なひと、そして新教に適合的でないひとの二種類が存在するが、じぶんがどちらのひとであるかは単に偶然が定めるものであって、わたしやあなたの意志に関係なく物事が進められた結果である.だから、両者に優劣の関係を見出し、互いに敵意を剥き出しにして無駄にいがみ合うのは愚の骨頂である.突き詰めてしまえば、わたしたちは「偶然」という空の下ではみんな平等だ.幸か不幸か、偶然にも生きる事と死ぬ事を強いられているという意味ではみんな平等だ.

椅子に凭れ掛かってふんぞり返る重役.演歌を口ずさみなから真昼の歩道橋を揚々と渡る老人.慣れないリクルートスーツを身に纏い、ぎこちない動きでメモを取る就活生.腹を痛めて産んだ自分の子供の腹を無慈悲に蹴り上げる母親.みんな、生という不条理なゲームの駒に過ぎない.

善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや.やっていくしかない.地獄上等.

 

カネと幸福

いまはリスク社会である.核家族化もどんどん進展する.わたしたちは命綱無しで宇宙空間を浮遊し続けるスペース・デブリだ.スペース・デブリは自己存在の確証すら得られず、壊れたカセットデッキの如く「わたしは一体何者であり、そしてこれからわたしは何処へ向かうの」と質の悪いマントラを唱え続ける.

自己存在を不安という一色に染め上げられてしまったわたしたちにとっての束の間の気休め、それこそがカネだ.リスクへの恐怖という悪夢から目を瞑るためには、一心不乱にカネを稼ぎ、生じ得るリスクへの対処法の幅を広げる事.これが一番の気休めになり得る事はたしかである.

だからこそ、カネが一種の精神安定剤としての機能を果たすいまの世の中において、わたし、労働、カネの関係性をていねいに捉え直す事.カネを稼ぐ為に労働をするのではなく、労働とはまずこのわたしたちが生きる為にするものであるという元来の自明性自体が喪失の危機に瀕しているという事.これらの事柄を今一度よく各人が自分のあたまで反芻する事こそがきわめて重要な意義を持ち得るのではないかとわたしは思う.

 カネと幸福は比例するのであろうか.わたしにはこれが全く分からない.

上述したように、たしかにカネはわたしたちに精神の安定をもたらし得る.しかしながら同時に「カネが沢山ある」という事は、それだけリスクに対処する手元の切り札の数が増える事を意味する.「人間は自由の刑に処せられている」とサルトルが言い放ったように、手元の切り札の数が増えれば増える程に、わたしたちは自由という理念に唾を吐きかけたくなる衝動に思わず身を捩らせる事になるであろう.

カネはいくら稼いでもキリが無い.リスクにいくら身を強張らせようが、四方八方から次々とリスクの大波はわたしたちに容赦なく襲い掛かる.

わたしたち、それはあくまでゲームを有利に展開する為に切り札を操るプレイヤーである.わたしたちはけっして切り札そのものに操られてはならない.喉の奥まで切り札をギュウギュウに押し込められ、呼吸が苦しくなってからではもう遅い.

わたしはまだ死にたくない.だから書を捨てて町へ出ようと思う.以上.

戦略的にグレるという事

 

髪を刈り上げにし、ピアスを開けた

先日、髪を刈り上げにし、更に右耳に二箇所、セルフでピアスを開けた.

個人的には行為そのものに意義を見出しているのであり、似合う/似合わないという観点は特に問題視していない.

念の為に付言しておくが、いまさら大幅に遅れて反抗期が到来したという訳ではない.理由なき反抗は美しくない.反抗にはそれ相応の筋の通った理由が存在すべきである.和辻哲郎は「予は知れるかぎりにおいて生れながらの反逆者であった」と自己を表現したが、私にもそれに共鳴する部分は無きにしも非ずである.毎日が反抗期である.我反抗す、故に我在り

 世界には主人と奴隷という二者しか存在しない.究極的な状況において自己の生命と他者の生命を天秤に掛ける事を強いられたとすれば、私は私の生命を選ぶ.浅薄な平和というぬるま湯に漬かり切って他者に殺される事、それは翻って他者という確固たる存在への冒涜である.

他者への配慮、同情、優しさ.こんなスッ惚けたものは不要である.ヤマアラシヤマアラシ同士、互いの肌を針で傷付け合い、自身の痛みを各々固有のものとして受容し、痛みの共有不可能性を基に手を結ぶべきである.我と汝の対峙、そして真の意味での優しさ、それは私と他者の間に横たわる深淵を直視する事である.

だから私は私にとって常に主人でありたい.これが私なりの反抗である.髪を刈り上げにし、ピアスを開ける事.それはこの戦略の細やかな一部である.

 

記号の攪乱、肉体的苦痛

断髪行為に関して

女性性と男性性を始めとする二項対立を、止揚させる事なくそのまま同じ鍋の中に放り込んだまま徹底的に放置したかった.それを自分の身体で表現してみたかった.

理論を頭の中で弄ぶ事は比較的容易だが、それを実践の場に移す場合には別種の困難が付き纏う.理論と実践の間に存在する壁に目を凝らし続けるのも興味深い試みではあるが、一先ず自分の手の届く範囲から川に石を投げ込む事にした.

自分の身体の中で手軽に弄れる上に、自分に対して向けられる他者の眼差しを手軽に変化させる事が出来る部位といったらもう髪ぐらいしかなかろう.

生を営む限り、私は半永久的に記号の暴力に脅かされ続ける.私は他者が規定する「何者であれ」という命令から背を向ける事が出来ない.私は私が本質的に規定され得ぬ存在である事を知っている.しかしながら規定、それは私の身体、そして精神を無慈悲に切り刻み続ける.

この痛みに安住し続けるぐらいならば、この痛みを逆手に取り、自己の外見のイメージを自分自身で構築する事で他者による規定から先手を打った方がまだ救いが存在するのではなかろうか.あらゆるメタな法の脅威、世界という混沌から自己を防御する為には、自己固有の法を固持するしかない.

私はムルソーになりたかった.常に曖昧であり、融通無碍であり、世界に対して異邦人でありたかった.だから髪を刈り上げた.

 

ピアッシングに関して

両親から授かったこの肉体に穴を開ける事で、自然という完全性を荼毘に付したかった.不完全性に身を置く事で、創造性の本質に触れたかった.自分自身の身体を棄損する行為に手を付ける事は、私にとって一種の義務であろう.

なお、ピアッシングに関しては、病院で施術してもらうのではなく、セルフで行う事に決めていた.

他者に私の肉体的苦痛までをも奪われてしまったら、窮極的な意味で私は私の自己性を何処に見出せばよいのであろうか.そんな問いを脳内に抱え続けていたという事もあり、自己の肉体を実験台にして一歩問いを先に進めてみたかった.

折角なので、私の敬愛するアルトーの言葉を、ここで少し引用しておこう.

麻薬に関する法律は、公衆の健康の監督官つまり簒奪者の手に、人間の苦痛を自分の思い通りにする権利を委ねるものだ.自分の義務を各人の意識に強制しようとするのは近代医学の奇妙な自惚れである.公的決定のあらゆるわめき声は、この厳然たる自覚に対して何の効力ももたない.つまり私は、死の主人である以上に、私の苦痛の主人なのだ.あらゆる人間は、自分が率直に耐えうる肉体的苦痛の、あるいはまた精神的空虚の量の裁判官であり、唯一の裁判官である.

明晰であれ不明晰であれ、どんな病も奪うことのできない明晰さがある.それは私の肉体の生の感情を私に命じる明晰さだ.

 

 -A.アルトー「冥府の臍」(宇野邦一(2011)『アルトー 思考と身体』白水社, pp.75-76より宇野訳を引用)

 それ相応の痛みを期待して自らピアッシングを行ったものの、大した痛みは感じられず、正直落胆している.実存を感じる為には痛みは強ければ強いほどよい.

もっと痛みが欲しい.この欲に素直なまでに愚直な人間は、巷で流行りの身体改造なりトランス・ヒューマニズムに耽溺する事になるのであろう.恐らく、私と彼らの間のスタンスには大した差異は存在しないように思われる.要は実践の強度の問題である.

 

「人は外見ではなく中身」なのか

さて、以上のように私は外見をいわば社会的には負のベクトルへと弄ってみた訳であるが、ここでもう少し外見と内面の関係性について考えてみる事にしよう.

なお、ここでの外見とは「人の見た目」という狭義の外見のみならず、記号一般という広義の外見をも念頭に置いている.

 

以前、ある人物Aが自身の髪を奇抜な色に染め上げている理由を耳にした事がある.当のAの主張の概要は以下の通りである.

  • 外見という表象に人間的な価値判断の重きを置く人間は、奇抜な髪の色をした『わたし』と直面した時点で、『わたし』に対して社会的に負のレッテルを貼り付ける.そのため、そのレッテルを通じた形式でしか『わたし』と接しようとしない.しかしながら、そうでない人間も中には存在する.『わたし』は外見を武器に、外見で人間を選別する者を選別し直すのである.
 
  皆はいとも容易く「ひとは外見ではなく中身が大事だよ」と口に出す.
本当にそうなのであろうか.
少なくとも私は、ひとの純粋な中身を直視出来た記憶すらない.
 
自我の自我の自我の自我…

私は、あらゆる種類の記号を帯びている.顔、性、人種、学歴、収入、家族構成など、その例は枚挙に暇が無い.私とはあらゆる記号を纏ったいわば記号の塊である.記号という記号の全てをはぎ取った時、そこには何が残るのであろうか.

われわれが自分の自我ー自分の思想、感情、もしくは本能ーだと思っている大部分は、実に飛んでもない他人の自我である.他人が無意識的にもしくは意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である.

百合の皮をむく、むいてもむいても皮がある.ついに最後の皮をむくと百合そのものは何にもなくなる.

われわれもまた、われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ.ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ.

 

大杉栄(1915)「自我の棄脱」

 

 自我の皮を棄脱し、純粋な自我、即ちゼロに還帰する事.

そう.私はゼロへの還帰、破壊、ダダである事を願ってやまない.

しかしながら、ゼロへの還帰とは主体の死*1に他ならない.私という個の意志には関係なく、私が生命体である限り、死に至る一歩寸前で踏み留まらざるを得ない事は自明である.これは一種の思考の限界を意味するものであろう*2

 

再度問う事にしよう.「ひとは外見ではなく、中身」なのであろうか

いや、問いの角度を少し変えよう.ひとに中身は存在するのであろうか.

 

根源的な私、それはゼロだ.それは厳密には私であって私でない.私はそれを私と呼ぶ事が出来ない.それは「お前は私であるか」という呼びかけに沈黙する事も、応答する事も可能であろうが、私はその微細な応答を聴き取る耳を恐らく持ち合わせていない.

現に今キーボードを叩く私、それはこのゼロの上に記号という仮面を被せた、仮面の二乗に他ならないのではなかろうか.

虚数」という数がある.二乗すると、マイナスになってしまう、おかしな数だ.仮面というやつにも、似たところがあって、仮面に仮面を重ね合わせると、逆に何もかぶっていないのと同じことになってしまうらしいのである.

 

安部公房(1997)『他人の顔』新潮文庫,p. 111. 

ゼロという根源的な私、それは捕捉しようにも捕捉し得ないが、仮面を仮面として顔に貼り付けるある種の不可視の力である.それはゼロではあるが、空虚という意味のゼロではない.寧ろ諸物が充満した根源である*3

だから、この世界で他者と対峙する場合に現れる私、それは自他を区分する仮面そのものである.本質的なものが宿る場所、それは表層に違いない.

はっきり言ってしまおう.ひとには中身なんて無い.強いて「中身たるもの」を言語化すれば、それは仮面が作り出した何らかのものだ.

ひとは中身ではない.ひとは外見がすべてである.仮面、それは私である.

 生とは仮面を被り続ける事である.仮面からの遁走は死である.

だからこそ、この仮面が内包する取り憑きの魔力を積極的に利用し、私の意に反する仮面が私の仮面に泥を塗る事にノンと叫ぶために新たな仮面を能動的に形成する事、いわば先に示したAのように外見のグレを戦略として活用していく事も悪くは無かろう.

 

グレるという能動的戦術を武器にしていく

人生は短い.メメント・モリ

今日の私は昨日の私とは別人格であるし、恐らく明日の私も今日の私とは様相を異にするであろう.同様に、今日の私の生が明日も自明であるとは限らない.

だから変に萎び切った連帯だの絆だのを結んで意味も無く他人と仲良く迎合する暇なんてありゃしないのである.本来的な連帯、それは個が個として在る事である.そうした形態に基づかない嘘っぱちの連帯なんぞ、知らんがな.勝手にしやがれ

手紙にくらべると、人間が直接に舞ひ込む方がまだよつぽど始末にいい.人間の方だと僕はどんな人間だつて追ひ帰すことはしない.ともかくも会つて見る.けれども僕はそんな人間によつて得をしようと心掛けないから従つて彼等の機嫌をとるやうな必要はない.[中略]僕はどの人間が目の前にゐてもその人に左右される事なしに、偶然そこに居合わせたぐらゐに心得て、僕のその時折の気まぐれを主観的な気持ちをそのまま吐出したり行為したりすることが出来るやうになった.これがまた自然に大変にいい対訪問者術であることがわかつた.即ち初対面で僕といふ人間をムキ出しに発表してしまふ事になる.それで愛想をつかした人間はもう二度と再び僕の面前へは現はれない.それでいいのだ. 

 

佐藤春夫高橋新吉のこと」高橋新吉(2003)『ダダイスト新吉の詩』日本図書センター

 外見を戦略的にグレさせようが何しようが、この外見の私は私の全てである.嘘偽りのない、ムキ出しの私である.変に繕ったって後々化けの皮は剥がれてしまう.だったら最初から変に気負わずムキ出しでいればよいのである.それでいいのだ.

政治と宗教*4が嫌いで、酒と女と文学を心から愛するような、真の意味で澄み切った綺麗な目をしたひとたち.そういった少数のひとたちと腹を割って話せればよいと思う.万人に好かれても疲弊し切るだけである.私はどうやらごく一部のひとたちしか好きになれないらしい.

物事は、わかるひとたちには届くものである.時代なんて関係無い.

わかるひとたちに、精一杯の愛を込めて.

 

*1:ここで私が真に主張するゼロとは、主体を主体たらしめる何らかの力であり、主体の成立と不可分なものである.

*2:大杉が主張したが如く自我の皮の全てを棄脱する事を目論むのではなく、ゼロと皮の拮抗関係、そして皮そのものに徹底的な反省の眼差しを向ける事.カオスに呑まれる寸前で足を踏ん張る事.真に探究すべきはこの視点であろう.

*3:仮面とゼロは分離不能である.要するに、ゼロが存在するが故に仮面は仮面として成立し得るのであり、ゼロの消滅は仮面自体の不成立に至る.

*4:物事を最終的に突き詰めた際に到達する問題系は恐らく宗教なので、確かに私は宗教が嫌いであるが知的対象としての宗教に関しては別である.

私のタバコノロジー

モノを燃やしたい

この年末年始はとにかくよく働いた.何故ここまで労働に身を費やしていたのかは自分でも定かではないものの「カネが無い」という強迫観念が、四六時中にわたって私の脳内を駆けずり回っていたという事は確かであった.鬱に片足を突っ込んでいるのかもしれない.早く定職に就けば、全ては解決するであろう.

三週間程度、仕事を三つ掛け持ちしていた影響でほぼ毎日ブッ通しで8時間以上は労働していた.休みは皆無だったので半ば死にかけていた.ふと鏡に映る自分の顔を見やると、目の下には未だかつて見た事もないぐらいに酷いクマが出来ていた.

 

労働終わりにフワフワとした頭で駅の雑踏を漠然と眺める.

酒に酔って覚束ない足取りをしたサラリーマン.駅の階段に腰を下ろし、虚空を見つめるホームレス.柱の陰で抱擁を交わす恋人達.一切の統一性を欠いたバラバラの人間達が、駅という一か所の「場」に集合していた.私、それはこの「場」を構成する一点に過ぎない.点は消失と出現を繰り返す.私の消失は、新たな私の出現を齎す.始まりとは終わりであり、終わりとは始まりである.生即死、死即生.チラチラと点滅を繰り返すクリスマスのイルミネーション、マニ車、山手線、ニーチェ永劫回帰

はてさて私の一回性は何処にある?発狂しそう.

 

労働が大嫌いであるにもかかわらず、私はどうやら無駄に多く働き過ぎたようであった.案の上、私の身体は体内に蓄積した悪い”気”を体外に放出する様子を可視化させる手段を欲するようになった.そして何よりも「モノを燃やしたい」という”謎の衝動”が沸々と沸き上がり、この衝動をぶつける場を何処かに見出さなければ気が変になりそうであった.とにかく自分の眼前でモノが燃える様子を眺める時間が、私は喉から手が出るぐらいに欲しくてしょうがなくなった.

 

焼きアイドル

「モノを燃やす」という事.

思い返せば昔から私は何かとモノを燃やしがちである.

幼稚園児の頃、私は深緑色の髪をしたリカちゃん人形を持っていた.恐らくクリスマスか誕生日に両親から貰ったものであったように記憶している.このリカちゃん人形には、通常のタイプとは異なったある特徴があった.彼女の髪を手で握ると、あら不思議.人間の体温で元々の深緑色の髪が明るい緑色へと変化するのである.この特徴を踏まえた上で当時の私が思い付いた事、それは人間の体温よりも高い熱にリカちゃんの髪を晒せば、もっと手っ取り早くかつ鮮やかに彼女の髪の色を変化させる事が出来るのではないかという事、その一択であった.

ある日、私はリカちゃんの胴体を両手で握りしめ、その深緑色の髪を自宅の居間に備え付けられたストーヴの火に近付けた.「はやく明るくなれ、はやく明るくなれ」と心に念じながら、リカちゃんの髪を火の前に晒し、ひたすら待ち続けた.待って、待って、待ち続けた.

私は待った.だが、リカちゃんの髪は一向に明るくならなかった.ふと気付いた瞬間には、もう全てが遅かった.リカちゃんの髪は、真っ黒に焦げた.室内に焦げ臭い匂いが充満したせいか、顔を真っ青にした母親が駆け寄ってきた.

私は何故か笑った.リカちゃんの綺麗な髪が一瞬の内にその原型を留めない状態へと変容を遂げ、深緑色が「黒」という一色に還る様子に、かつての私は強い興奮を覚えた.今思い返せば、この出来事はリカちゃんという女の子のアイドル、即ち偶像が灰燼へと帰す様子に他ならない.既に現在の私のポーズは幼稚園児の頃にキマっていたのかもしれない.破壊への衝動は、創造への衝動である.

 

私がモノを燃やした経験は、もちろんリカちゃん人形に留まらない.

ストーブの上に何気なく置いていたプリント類の存在に気付かずにストーブに点火をし、自分の部屋でボヤ騒ぎを起こした事もある.また「何だかモノの焦げる匂いがする、おかしいなあ」と思い、呑気にふと自分が着ているフリースの袖に目をやると、電気ヒーターの熱でフリースがドロドロに黒く溶けていた事に気付いた事もある.

そして現在の私には、新たな「モノを燃やす経験」が付け加わった.

煙草である.

 

煙草

自由意志.

果して自由意志は存在するのであろうか.私の「選択」は、何処まで私の意志に依拠するのであろうか.

神は我ら人間を創りたもうた.我ら人間、それは神にとっての煙草であり、気休めであり、闘牛場の闘牛に過ぎない.我ら人間が石に躓いて転ぶ様子、静かに愛を交わす様子、互いに銃口を向け合って血を流す様子、一切は神の娯楽に過ぎぬ.神の手中で右に左に揺り動かされる、チェス盤の上の駒.駒にとっては為されるがままに、絶対者の意の下に身を委ねる事を「信仰」という言葉で受容する以外に為す術は残されていないのであろうか.救いは何処にある?

 救い.私は煙草を吸い、サイコロを投げる事、即ち「賭け」に束の間の救いを見出そうと思う.神は世界を創りたもうた.神は我ら人間を創りたもうた.神が私を束の間の気休めとして、その享楽のために遊び甚振るのであれば、私は寒空の下で煙草を吸ってやろう.私はサイコロを何度も何度も床に転がしてやろう.幸運への意志.さあ、賽は投げられた.そんなもん投げ返してやりゃあええのさこの野郎.

 

直線的な時間

過去から現在、そして未来へと一直線に突き進む時間.この私が生きる時間とは、ほんとうに、ほんとうに”この時間”なのであろうか.電車のレールの如く真っ直ぐに伸び切った”この時間”、それは浅薄な正統性を伴った贋物に過ぎぬ.腕時計なんて要らねえんだよ.もう全部燃やしてえなこの野郎.キレそう.

私が生きたいと真に願う時間、それは絶対的な瞬間性、過去と未来が一点に収束した、捕捉しようにも捕捉不能な不条理の体現者としての「現在」に他ならない.長く生を営めば営む程に、逃避を望めば望む程に、絶対的な”圧”に押し潰される私.可能性を剥奪され、一切の必然の下で呼吸を強いられる私.不格好な私を引き摺って満員電車に揺られ続けるよりは、私は瞬間という絶対性、瞬間という永遠性に背を預ける事に享楽を見出す事としたい.もう長生きしたくねえんだよこの野郎.こっちにゃそもそも「未来」なんてねえんだよ.「未来」でメシは喰えんのかよ.何がユートピアじゃ.キレそう.

 

 

最寄り駅のロータリーに備え付けられたベンチに腰を下ろし、 寒さに震えながら煙草を口に咥え、そっと火を付ける.肺一杯に煙を吸い込み、ゆっくりと息を吐きだしながら、手元の煙草を燃え尽くしていく小さな火種を眺める.

ロウソクが燃え尽きるように、手元の煙草の長さが徐々に短くなっていくように、あるがままに生きるという事.私の生、この偶然性を静かに消尽するという事.

 

ああ、空を眺めりゃ今日もやっぱりは綺麗だ.おわり.

突然だがTwitter復帰しようと思う

私の気持ちを吐露するという事

対象を認識するという事.私の意識が対象を捉えたが故に「認識」と呼ばれるものが生じ得るのであり,この私,今真っ白な画面にキーボードで文字を打ち込むこの私の意識が存在しなければ,対象は存在し得ない.今ここに私は在る.パソコンが在る.ワイングラスが在る.世界が在る.私がベッドに身体を横たえれば,世界も頭から毛布を被る.私が死んだら,世界も眠る.世界が在り,私が在るのではない.私が在り,世界が在るのである.だからこそ私は,本ブログに「私の気持ち」を吐露し続けようと思う.あの子と言葉を交わした際の胸の高鳴り.ビルの隙間から顔を出した月の静けさ.口に広がるチョコレートの甘さ.

ランボーはこう言い遺した.私とは他者である,と.ごもっとも,世界は私にとって異物であり,私は世界にとって異物であり,そして私とは私にとって異邦人に他ならない.しかしながら,この私,現に質料として在るこの私,今という時間に生を費消するこの私,この世界の美しさに大して沈黙するこの私には,けっして異邦人という浅薄な表現では還元し切れない「この私」という何らかの残滓が存在するはずである.

私,私という表現から逃避しようと足掻く「この私」は,私たる残滓を拾い集め,それに生クリームでも加えて丁寧に鍋の中で煮詰め,粗熱が取れたらその中身を冷凍庫で冷やし,口に放り込めば死んでしまうぐらいに甘いキヤラメルにしようと思う.私は今日からキヤラメル屋さんになる事にしよう.これが私の気持ち,ありのままの気持ちである.

 

はい,という事で

もちろん,本ブログも創作活動の一環に他ならないが,もう少し本格的に創作に携わりたくなってきたので,そろそろ詩作でも始めようと思う.小説を執筆するよりも,この私が手を伸ばすのであれば,まさに詩作こそが相応しいのではないかと思い至った次第である.今後小説を書き始めるかは不明である.とはいえ,何らかの形で自らの創作の結果を何処かの場にてアウトプットしていく事に対しては,積極的な気持ちを持つようにしたいと思う.何事も気持ち,気力,そして大声.

しかしながら,ここである問題が浮上する. 詩作を行うにあたって,一冊のノートでも手元に用意し,心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく書きつくるのはよいとして,いや,この「一冊のノート」という前提こそが全く宜しくない.本ブログでも以前に言及した事があったように思われるが,なにぶん,私は筋金入りの「飽き性」である.

既に本年の手帖は3度買い替えてしまった.この点に関しては,我ながらやり過ぎたと思う.現在は書店で購入したカタ落ちのRollbahnの手帖を使用している.表紙が金色なので既に表紙の傷が目立った状態にあり,微妙にストレスが溜まっている.日記なり家計簿といった類のものが継続出来た記憶もない.

Twitterのアカウントに関しても,2年に一度ペースでアカウントを消去しては新たなアカウントを再度作成するという珍行動を繰り返していた.

人間関係においても,卒業を経て学生生活に一区切りが付いた瞬間に,知人・友人の連絡先の一切を抹消するという”悪癖"がある.病気なのかもしれない.だが,大抵の場合,人間を病人呼ばわりする人間の方が本質的な意味で「病人」である傾向にあるし,更に言えば,世の中に真理なんて高尚なモンはそもそも存在しないので,特に気に留める必要もなかろう.入学なり卒業なり,一定の区切りに対する執着自体に私は全く価値が見出せないのである.そうであるが故に,私には友人・知人が極めて少ない.大学時代の友人の連絡先はまだ残してあるが,社会人になる頃まで手元に残っているかは定かではない.

本ブログに関しても,いつまで戯言を書き殴り続けるのかは不明である.ただ,拙文を定期的に読んで下さっている方々がこの世界の何処かで呼吸をしているという事実そのものに救いを感じるが故に,私は惰性で本ブログを継続しているだけである.

上記を踏まえれば,私は「過去の自分」という存在を前提に「現在の自分」を捉える事に対し,生得的な忌避感を覚えるらしい.過去の自分という被造物なんぞ焚火の中に放り込んでしまえばよいと思う.焚火の火が大きくなればなるほど,私の頬は緩む.微笑みながら焼身自殺をする事,それが私の究極形態であろう.破壊への衝動は,創造への衝動である.

 

ああ,前書きが長くなってしまったので

詩作に話を戻そう.畢竟するに,私が詩作を行う相棒として「一冊のノート」は不適合なのである.他の媒体を探す必要があろう.私自身が即興詩へと身を転じる事,即ち「演劇」にでも身を投じればイメージに近い表現が可能なのかもしれないが,私はあくまで「言葉」で「言葉」を破壊する事に拘りたいので,如何に詩作にまつわるアイデアをストックする事が相応しいのか,現在模索中である.アイデアのストック手法として,何か良いものは道端に転がっていないだろうか.適当に悩んでいきたい.

 

そこで手始めではあるが

atamaganai.hatenablog.jp

 色々思う事もあるので,Twitter復帰しようと思う.

「破壊への衝動は,創造への衝動である」という事で,手始めに上記記事を燃やして来た.「個人的な形でツイッターに携わる機会は恐らく今後到来しないであろう」というのは真っ赤な嘘であった.全く一貫性が無いが,一貫性の無さこそが私なので,これはこれでしょうがないし,ちなみに私はそういう人を研究しているつもりです.

 

はい,という事で(二回目)

アカウント名もIDも変えていない.仕切り直す気力すらないが,微妙に社会交流の機会を増やしていきたいと思う.どうぞ宜しく.以上.

twitter.com

 

 

飼い犬の手を噛む人間

生存報告

 

ボクシングを始めようと思う

ボクシングに関しては結構前々から薄っすらと関心を抱き続けてきたが,最近,このボクシングこそが研究の肝となる可能性を秘めているのではないかという考えが頭に浮上してきた.私が過去に本ブログにて撒き散らしたあらゆる戯言を通じて,私の研究対象の正体に気付いてしまった諸兄方もいらっしゃるかもしれない.恐らくバレているであろう.念の為に付言するが,ニーチェ先生ではない.

大切な賃金である.どうせなら回し車にブチ込まれたハムスターの如く,退屈なテレビでも眺めながらジムのランニングマシンの上で足を動かし続けたりアレコレするよりも,スポーツとしての専門性があり,加えて私の性に妙に合いそうなボクシングに金をつぎ込んだ方が有意義なのではないか,という気になっている.

 という事で,ボクシングジムでも探しに行きたい.何かとこの方面にお詳しい方がいらっしゃればコソコソと教えて頂けると光栄である.地元もしくは中央線沿線で探したい.どうでもよいが,こういう時にTwitterを持ち合わせていない事の不便さを感じる.Twitterやりたい.でもやりたくない.どうしよう.

 

生きるだけで

疲れる.生存という生物にとって自明の行為自体に苦痛を感じる.生きる事に向いていない生物とは,生物なのだろうか.私とは一体何者,いや,何であるのか.

 

長い物に巻かれたい

長い物に巻かれて生きていきたかった.海苔巻きの海苔の内側で押し潰される一粒の米になりたかった.押し潰された私という存在が,誰かの胃袋を満たし,彼がこの世を生きる気休め程度のエネルギーへと姿形を変える事に対し,幸福かつ満ち足りた気持ちを抱く事が出来るメンタリティーを持ち合わせた人間になりたかった.

私という存在は所詮どう足掻いても社会的異分子に過ぎないようなので,仮に血の滲むような努力をして長い物に巻かれたフリを試みたとしても,いつの日にか不自然極まりない「この仮面」を引っ剥がされる時が来るであろう.狭苦しい巣の中で親燕の帰りを待ち続ける子燕のように,ピイピイパタパタと羽を震わせながら,審判者によって有罪宣告を受ける日の到来に胸を膨らませる毎日.「被告人を死刑に処する」と審判者が告げた瞬間,私はそこに"ある種の救い"を見出すであろう.

ビッグ・ブラザーから逃れる場なんてこの世には無い.皆が私を見ている.私も私を見ている.私は皆が嫌いである.そして私自身も嫌いである.私の敵は紛れようもなく私であり,私は私という存在から逃れ得る一切の可能性をこの手に握る事に関心を注ぐのみである.ジョッキに並々と注がれたビールを飲み干し,ジョッキを床に投げ付ける事.胸の大きなウエイトレスが新たに運んできてくれたジョッキに対し,同様の動作を延々と繰り返す事.そうしている内に,酔いが回ってこの世の全てはどうでもよくなってくれるはずである.

「この世の全てがどうでもよい」と感じる事.やっぱり長らく私に纏わり続ける「この愛すべき感覚」を,私の唯一の武器とする事が肝要なのかもしれない.海苔巻きの海苔の内側で押し潰される一粒の米になれないのであれば,この私が海苔巻きを鱈腹平らげてやればよいのである.喰われる前に喰うという事.スピードで勝負するという事.加速に加速を重ね,エネルギーが凝縮した一つの点になるという事.こうした姿勢で生きていきたい.

 

太った豚よりも痩せたソクラテスの方が

マシではない.長い目で見れば太った豚の方がマシである.

 

「種なしブドウ」という表現を耳にすると

何故だか笑いが止まらなくなってしまう.これは病気なのかもしれない.種なしブドウ病である.不謹慎極まりない事は百も承知であるが,残念ながら私のツボは不謹慎な傾向を帯びたものに反応する仕様であるらしい.蛭子能収には,知人の葬式で笑ってしまうエピソードが存在するが,私も全く他人事ではなかろう.私だってモンティ・パイソンを見てゲラゲラと笑ってしまう人間に育ちたくなかった.父上,母上,申し訳ございません.私はゆとり教育の失敗作です.要するにだからモテないのであろう.

バイト先の売り場いっぱいに響き渡る「種なしブドウ,ご試食いかがですか.種が無いですよ.甘くて美味しいブドウです.種が無いので食べやすいですよ.どうぞ~.」という試食販売のコールに対し,無限にこみ上げてくる笑い.まるでマグマである.唐突に,何故か『太陽肛門』に登場するイエス・キリストとヴェスヴィオ山を掛け合わせたバタイユの造語「イエスヴィオ山」が脳裏に浮かび,更に笑いがヒートアップする.笑いの突沸.カップラーメンも無いのに湯を沸かすのは阿呆だね.ただの阿呆だ.

 

最近の気分を曲で表現してみると

これ.

youtu.be

 

以上.陽気にやっていきましょう.