世界の片隅でカネを稼ぐには

 

「ねぇ、モノレールってどうしてモノレールなの」

新緑が目に眩しい季節となった。もう5月である。

オレンジやイエローのお揃いの帽子を被った大勢の幼稚園児達が、大人に手を引かれて電車内にワッと入ってくる場面に遭遇する事が多い。恐らく遠足の行き帰りであろう。微笑ましいカオスの突然の登場に、車内は驚き、そして頬を緩める。幼稚園児たちの柔らかな肌に透き通った瞳、そして屈託のない笑顔は、明るい未来に心を躍らせていたかつての自分への郷愁を誘う。幼い彼ら同様、私も、そして貴方も、かつては眼前に広がる無限の可能性という広大な草原に寝転び、青空に伸びる飛行機雲が消えゆく様子を呑気に眺める事が出来た時代が、あった。

今、私の眼前に広がる光景は、青々とした草原ではない。荒涼とした砂漠、砂の海である。カネを稼げ、カネを回せ、目的合理性の輪を乱すなという至上命題が、サイレンの如く年中無休で頭の中を駆けずり回っている。草原に漂っていた青々とした匂いへの記憶は、風が運ぶ無味乾燥な砂粒によって徐々にかき消され、やがて私はいつの日かその甘い記憶自体を失ってしまうのかもしれない。波打ちぎわの砂の表情のように消滅する私。

隣の座席に腰掛ける大人の目を真っ直ぐに見つめ、疑問をぶつける幼稚園児。

「ねぇ、モノレールってどうしてモノレールなの」

彼らのビー玉のような目が反射した光の眩しさに目を細める内に、私もとある疑問を青空に向かって投げつけたくなってきた。

「ねぇ、カネを稼ぐには、一体私はどうすればいいの」 

 

 

 モリッシーとの対話

ここで「働くこと」に対する私の気持ちをモリッシーに代弁してもらおう。万物に対して嫌気が差した時、私はザ・スミスの楽曲を摂取する事が多い。数あるザ・スミスの名曲の内、個人的に圧倒的な再生回数を誇る楽曲を皆様にご紹介しよう。

youtu.be

以下、歌詞を引用する。

I was happy in the haze of a drunken hour
But heaven knows I'm miserable now
I was looking for a job, and then I found a job
And heaven knows I'm miserable now

In my life
Why do I give valuable time
To people who don't care if I live or die

Two lovers entwined pass me by
And heaven knows I'm miserable now
I was looking for a job, and then I found a job
And heaven knows I'm miserable now

In my life
Why do I give valuable time
To people who don't care if I live or die

What she asked of me at the end of the day
Caligula would have blushed
"You've been in the house too long" she said
And I naturally fled

In my life
Why do I smile
At people who I'd much rather kick in the eye

I was happy in the haze of a drunken hour
But heaven knows I'm miserable now
"You've been in the house too long" she said
And I naturally fled

In my life
Why do I give valuable time
To people who don't care if I live or die

 

モリッシーはこう歌う。

「どうでもいい奴等に何で俺の貴重な時間をやらなあかんのや」

「むしろ顔面蹴り飛ばしちまいたい奴等に何で微笑まなあかんのや」

 スマイルの叩き売り。貴重な時間の叩き売り。叩き売りに叩き売りを重ね、手にしたカネで酒を購入し、束の間の忘我の境地に至り、際限なき叩き売りのスパイラルに再び身を投じる日々を繰り返す我々。資本の蓄積。投資。自己実現という虚構。いつかスパイラルに終止符が打たれる日を夢見て、満員電車に押し潰され、今日も明日も、人は働く。

多くの人間がこう語るのを耳にするであろう、「五十歳になったあとは閑居し、六十歳になったら公の務めに別れを告げるつもりだ」と。だが、いったい、その年齢より長生きすることを請け合ってくれるいかなる保証を得たというのであろう。事が自分の割り振りどおりに運ぶことを、そもそも誰が許してくれるというのか。生の残り物を自分のためにとっておき、もはや何の仕事にも活用できない時間を善き精神の涵養のための時間として予約しておくことを恥ずかしいとは思わないのであろうか。生を終えねばならないときに至って生を始めようとは、何と遅蒔きなこと。わずかな人間しか達しない五十歳や六十歳などという年齢になるまで健全な計画を先延ばしにし、その歳になってやっと生を始めようと思うとは、死すべき身であることを失念した、何と愚かな忘れやすさであろう。

セネカ『生の短さについて 他二篇』大西英文訳、岩波文庫、2013年、p.18.

 影日向に咲くタンポポの如く、力強く、そして静かに、自分の生に対峙する事は出来ぬものか。世界の中心で愛を叫ぼうがカネを稼ごうが私には知ったこっちゃない。中心よりも周縁に身を置いた方が、物事は何かと見やすくなる。故に私は周縁が好きだ。

 さて、ここからは現実と折り合いを付けながら、周縁という世界の片隅でカネを稼いでいく私なりの理想像を列挙していくコーナーとしよう。実現可能性は特に考慮に入れていない。抑々そんなものは考慮に入れる必要が無い。どうせ物事は至ってシンプルである。為せば成る、為さねば成らぬ、成る業を、成りぬと捨つる、人のはかなき。以上。

 

 

世界の片隅でカネを稼ぐには

  • 公務員

カネ稼ぎの手段としては最も現実的。民間よりは恐らく安定性がある。公僕になれる。特にコメントする事も浮かばない。はぁ~。以上。

 

  • 研究者

幼少期に七夕の短冊に殴り書いた”将来の夢"はいつも研究者であった。現在に至るまで私の頭の中には結局それしかない。これだから全く救いようが無い。妥協という文字を額に彫った方がいい。

今の世の中では研究者というポストにありつく事自体が至難の業である。ついでに大学自体が既に斜陽産業である。人文系は瀕死状態である。メシが喰えない。メシが喰えねば人は死ぬ。生きる事に意味は無いが、取り敢えず生きねばならぬ。故に大学教員になりたいという気持ちは私の中に微塵も無い。抑々、私は学校という制度自体と強烈に相性が悪い。イリイチ万歳。そんな人間が教員になってどうする。お前はナンセンスの権化か。故に他の方向性を模索する事が肝要であろう。

 

陶芸にしろ料理にしろ、自分の心に浮かぶイメージの表現物に偶然性が介入する事で、自分のイメージの表現物と実際の完成品との間にズレが生じるという共通項がある。両者共に自然の材料をベースにしながら、自分の脳内のイメージを具現化する事が可能であるとはいえ、それは脳内の設計図通りには上手くいかない。いくら同じ形に土を成型したつもりになろうが、同じ料理を作ったつもりになろうが、微々たる条件の複雑な絡み合いによって「同じもの」は結果的に存在し得ない。我々が予期し得ぬ「偶然」という云わば恐怖の対象を、新たなる創造のチャンスを生み出す女神として崇める事が出来る職は、何と魅力的なものであろうか。

自分で作った料理を、自分で作った皿の上に盛り付け、愛する人と他愛ない会話を食卓で交わす。そんな日常。そんな日常が、私は羨ましい。

 

  • 文筆業

私は人間に向いていない。早く人間をやめたい。この感覚は幼少期から現在に至るまで延々と私に付きまとい続けている。恐らく死ぬまでこのままであろう。時々無性に笑いが止まらなくなる。恥の多い生涯を送ってきました。

「踊りを一度も踊らなかった日を、われわれは空しかった日と考えよう!また哄笑を伴わなかった真理を、われわれはすべてにせものと呼ぶことにしよう!」

ニーチェツァラトゥストラ』23節.

故に、”書く”という行為に関しては、ある種の救いが存在する可能性があるのではないかという気がしている。生きる事に不向きな人間は、大概書く事においては強力なアドバンテージを有している。ちなみに私の身内にも物書きがいる。物書きというと聞こえは良いが、別に書いた物でメシが喰えている訳ではない。全く救いようが無い。私は彼の事を何故か幼少期から嫌悪している。恐らく同族嫌悪であろう。とはいえ、長年に渡って物を書き続けている彼の姿には感服せざるを得ない。彼も妥協という文字を額に彫った方がいい。きっと彼は"書かざるを得ない"人なのであろう。ほんとうに困った人だ。そして私も困った人だ。いつの時代も一定数の困った人間を生産する。社会システムにはバグが付き物である。困った、困った…。

 

  • 羊飼い

司牧者権力になれる。人が誘導出来ぬならば、羊を誘導しよう。以上。

 

  • ワイン農家、ワイナリー経営者

何故人はに溺れるのであろうか。

酒を喉に流し込む目的は十人十色である。ある者は女を口説く為に飲み、またある者は上司への不満を喉の奥に押しやる為に飲む。人の数だけ飲む理由がある。勿論私にも、ある。酒というものは旨い。確かに旨い。しかしながら私が酒を喉に流し込む理由、それは酒の旨さを舌で感じる事がその第一ではない。

第一の理由、それは、思考するという行為そのものに対して適度な範囲で終止符を打つ為である。何事も中庸が一番である。過剰というものは死に繋がる。思考はしなさすぎても、し過ぎてもいけない。とはいえ、恐らく毒性が強いのは圧倒的に後者であろう。思考のしなさすぎは純粋な幸福を齎す可能性を秘めているが、その一方で思考のし過ぎが幸福を齎すとは全く考えにくい。思考のし過ぎ、それは猛毒である。私は自分が分泌した毒で絶命に至る程のロマンチストではない。だから私は酒を飲む。

酒は人を破滅に追いやる。その一方で、人に救いの手を差し伸べる。カタストロフと救済が見事に同居した酒という不可思議な存在と、ビジネスパートナーとして手を組めたとすれば、それはどんなに光栄な事であろうか。酒といっても様々な種類が存在するが、折角なら私はワインと手を組みたい。ディオニュソス万歳。 

 

  • ラッパー

私は口が悪い。ほんとうは、ほんとうに口が悪い。普段は口の悪さが人様にばれぬよう、極力口数を減らして生活している。私は貝になりたい。ちなみに私の敬愛する映画『ゴッドファーザーⅢ』でのマイケル・コルレオーネの台詞の一つにも"You keep your mouth shut, and your eyes open"というものがある。言葉を信用してはならない。

美しい言葉を操る人間に対し、私が尊敬の念を禁じ得ないのは、恐らく私元来の口の悪さに起因するものであろう。人様の目に汚物が映らぬよう、美しい言葉という堅固な蓋で汚物の存在を隠し通すのである。ほんとうに美しい言葉、それは卑猥さそのもの、即ちである。花、それは芳しい香りを放ち、凛とした微笑を太陽に向ける事で卑猥なる生殖器というその本質を隠し通そうと足掻く。美とは何と醜悪なものであろうか。まるでドブネズミだ。

私の口の悪さそのものを活かす職の一つにラッパーが挙げられる。とはいえ私は残念ながら滑舌が悪い。そして、目立ちたくない。恐らく私にはラッパーへの適性はあまり無いように思われる。悲しい。

 

  • お笑い芸人

私が最も尊敬する職、それはお笑い芸人である。

以前のバイト先にて何かと私はお笑い芸人の方々と縁があった。そのバイト先には、地上波デビューを目指している現職のお笑い芸人の方やら、お笑いの道を一休みして正社員という職にシフトを移された方がいらっしゃった。実際に彼らと接する中で漠然とではあるが私が得た”ある感覚”、それは彼らには”何かが、ある”というものであった。"天性のセンス”というか何というか、私自身が上手く言語化出来ない領域に属する”何か”である。

何の変哲もない日常が孕む微小たるズレを機敏に掴み、縦横無尽に笑いの花を咲かせたかと思いきやその花弁を無残にも堂々と引き千切る彼ら。お笑い芸人とはやはり素晴らしい職である。道徳の間にユラユラと立つ彼ら。知性の体現者、それは大学教授ではなく、きっとお笑い芸人である。

人が自分の発言に対して笑ってくれた瞬間に感じるあの甘美さはほんとうに病み付きになる。人工甘味料である。恐らく私はお笑い芸人として大成する運とセンスとコネは持ち合わせていない。とはいえ、酒場でウイットの効いた発言を時にポロリと溢し、周囲の人間の頬を緩ませる芸当が出来る程度の人間にはなりたい。そう願っている。

 

 

結論:砂漠に雪を降らせよう

シメのラーメン代わりに一冊の本をご紹介しよう。

砂漠 (新潮文庫)

砂漠 (新潮文庫)

 

 

あらすじは以下の通り。

入学した大学で出会った5人の男女。ボウリング、合コン、麻雀、通り魔犯との遭遇、捨てられた犬の救出、超能力対決……。共に経験した出来事や事件が、互いの絆を深め、それぞれを成長させてゆく。自らの未熟さに悩み、過剰さを持て余し、それでも何かを求めて手探りで先へ進もうとする青春時代。二度とない季節の光と闇をパンクロックのビートにのせて描く、爽快感溢れる長編小説。

伊坂幸太郎 『砂漠』 | 新潮社より引用。

 私と伊坂幸太郎の著作との出会いは中学時代に遡る。斜に構えた独特なユーモアセンス、真面目と阿呆の共存、そして作品中に散りばめられた複雑怪奇なパズルのピースが作品間の垣根を越えて共鳴し合うこの数奇さ。

拗らせ拗らせを重ね、拗らせのミルフィー(現在進行形だが)と化していた当時の私の心情に、伊坂の作品は何だかピタリとハマった感覚を今も覚えている。

 

『砂漠』には、ある印象的なキャラクターが登場する。西嶋である。

西嶋を私なりに描写してみよう。先ず、彼は小太りで可愛らしくない。要するに彼は全く女子からモテる風貌ではない。ダメだ。しかもクラッシュだのラモーンズだのニーチェだの三島由紀夫だの、仕舞いには「ビル名、ライジングビルだっけ」という問いかけに対し、「ロバート・デ・ニーロの映画は、レイジングブルですけどね」と言って一人で笑い出す*1始末である。二重でダメだ。西嶋、お前は何なんだ。ちなみにダメってのは私なりの最高の誉め言葉だ。

 

そんな愛すべき西嶋が、大学入学冒頭の自己紹介にてブッ飛ぶ様子を引用しよう。

 「あのね、おまえたちね、信じられないかもしれないけど、ジョー・ストラマージョーイ・ラモーンも死んじゃったんですよ」西嶋は拳を振り上げた。

(中略)

「あの、パンクロッカーの二人がいなくなって、もう、世の中はどうなっちゃうんですか。俺たちが立ち上がるしかないでしょう?学生の俺たちが。パンクロックの精神はね、馬鹿な学生が引き継ぐしかないでしょう。」

馬鹿はおまえだー、と誰かが叫び、周囲が沸いた。けれど西嶋はお構いなしだった。

「あのね、俺たちがその気になればね」と言う。一拍、置いた。

(中略)

西嶋が、ぱかっと口を開き、「その気になればね、砂漠に雪を降らすことだって余裕でできるんですよ」と断言した。

伊坂幸太郎『砂漠』、新潮文庫、2010年、p.17-18.

 

 荒涼とした砂漠を降らせる事が出来れば、もしかすると、いつの日か砂漠から小さな緑色のが顔を出すかもしれない。やがて小さな緑色の芽は砂漠全面を覆い、干乾びた漠々たる砂漠があの懐かしい草原へと表情を変える日がやって来るかもしれない。

もう一度、広大な草原に寝転び、青空に伸びる飛行機雲が消えゆく様子を呑気に眺める為に、私はカネを稼ごう。適度にカネが貯まったら独立して好き勝手にメシを食おう。パンクロックの精神を引き継ごう。数年もすれば現在の私を、「懐かしいなあ」「そんなこともあったなあ」と昔に観た映画と同じ程度の感覚で思い返すようになり、結局、私は会社員として定年退職をし、ゲートボールを楽しむ。

なんてことはまるでない、はずだ*2

 

 

*1:伊坂幸太郎『砂漠』、新潮文庫、2010年、p.161.

*2:前掲書、p.537を参照。