平成最後の夏にブログを更新する

近況報告

期末課題も提出し終わり、私にも夏休みらしきものが到来した。とはいえ2か月という夏季期間中の内の一か月半、平日は毎日、朝から夕方まで単位の埋め合わせのために夏季講座に通っている。私の関心と重なる部分があるので受講申請をしたものの、正直な所を言ってしまえば退屈である。単位稼ぎのためであったとはいえ、受講申請をした事を少し後悔している。受講を中途キャンセルする仕組みも存在しないので、俗に言う内職(正確には文献の読み込み)をしながら時間を潰している。今の私は傍から見れば完全にワルである。とはいえ机に突っ伏すよりはまだマシであろう。支障が出ない程度にサボりつつ、修了論文を書き上げ、単位だけ都合よく貰えぬものかと画策しているが、どうなるのかはよく分からない。サボれる時は徹底的にサボるのが私のモットーである。まあ何とかなるさ。物事はどうせ何とかなる。

 今週からほぼ二週間は、上記講座の休講期間に相当する。ようやく待ちに待ったほんとうの意味での夏休みである。平成最後の夏。「最後」と言われると、今までの夏休みとは一風変わった「何か」を為さねばならぬような気がして来るが、そんな精神的余裕も時間もカネもない。課題だけは山程ある。そんな事を言わなくても、我々が何の変哲もなく送っているであろう日々の一日一日だって、我々の人生においてはたった一度しか到来しない「最後」である。ここで一句。自由律俳句。

 

―「平成最後の夏、それがどうした、知らんがな」

 

 貴重な休暇期間であるとはいえ、予定は殆ど立てていない。遠出する気もない。やる事といえば、D.グレーバーの『負債論 貨幣と暴力の5000年』をようやく購入したのでそれを読み、大学付近のTSUTAYAでレンタルしたDVDを消費し、気が向けば渋谷まで足を運んで原一男の『ゆきゆきて神軍』でも観に行こうかといった感じである。リア充のリもナイトプールのナの字もないが、私のような亜人間がナイトプールに足を運んだとしても、所詮出来る役柄はプールに浮かぶ溺死体ぐらいのものであろうし、結局私にはこの程度の過ごし方が一番であるように思う。省エネで生きていたい。

 

 

 考え事

  • 友人

 友人から「会いたい」と言われる度に、この友人は「私」に会いたいのではなく、あくまである目的を達成する為の一手段として「私」を利用しているのに過ぎないのではないかと思う事がたまにある。目的を達成するための手段としての私は、この「私」でなければならないのではなくて、別に誰でもよいのではないかという疑念が浮かび上がるものの、私は比較的お人よしな方なので、友人から誘われるとオーケーサインを出してしまう事が多い。

 仕事でもないし、大して会いたくもないのに無理をして会いに行く必要ももうないのかもしれない。他人に振り回されて後々虚無感に襲われるぐらいならば、他人に振り回されなければいいだけである。何だか歳を重ねれば重ねる程、周囲と話が合わなくなってきた気がする。私は私の世界で頑張るので、皆も各々の世界で頑張ってほしい。干渉したくないし、干渉されたくもない。正しく線を引いていきたい。

 

  • やりたくない事をやるという事に関して

学業にしろ、思索にしろ、やればやる程自分の力不足を思い知らされる。先人達は偉大である。「わかる」という事が一層わからなくなり、目の前が真っ暗になる。そして「やらねばならない事」が指数関数的に増加する。だからこそ最近はなるべく「やりたくない事」に注ぐ時間を削って「やらねばならない事」に時間を投下しなければならないという思いに駆られる事が増えた。こうした「雑事をカットし、一点に集中していきたい」という思いが強まったせいなのか、バイトに行くのが億劫になりつつある。加えて、服を選ぶのも億劫になりつつある。畢竟、亜人間化が一層進展している。マーク・ザッカーバーグやスティーヴ・ジョブズは毎日同じ服を着用しているらしいが、私も彼らの真似をしてみれば何かが変わるかもしれない。毎日黒いTシャツに黒いスキニー。ただのアナーキストやんけ。

 

  • 焚火がしたい

 最近、単純に「焚火がしたい」と思う事が増えた。モノが燃える様子をジッと眺めているだけで、心が癒されるのではないかと思う。そこら辺にある紙も、川辺で釣り上げた魚も、スーパーで購入した牛肉も、そして焚火を見つめる私も、焚火の中に投げ入れられれば皆そろって真っ黒い塊になれる。焚火は来る者を誰も拒まない。焚火の前でペルソナ・ノングラータなる言葉を放とうが無意味である。焚火は来る者を皆そろって黒い塊にする。焚火は暖かく、優しい。社会は冷たく、厳しい。私は焚火がしたい。誰か誘ってください、もしくはやりましょう。

 

 以上。暑い。