飼い犬の手を噛む人間

生存報告

 

ボクシングを始めようと思う

ボクシングに関しては結構前々から薄っすらと関心を抱き続けてきたが,最近,このボクシングこそが研究の肝となる可能性を秘めているのではないかという考えが頭に浮上してきた.私が過去に本ブログにて撒き散らしたあらゆる戯言を通じて,私の研究対象の正体に気付いてしまった諸兄方もいらっしゃるかもしれない.恐らくバレているであろう.念の為に付言するが,ニーチェ先生ではない.

大切な賃金である.どうせなら回し車にブチ込まれたハムスターの如く,退屈なテレビでも眺めながらジムのランニングマシンの上で足を動かし続けたりアレコレするよりも,スポーツとしての専門性があり,加えて私の性に妙に合いそうなボクシングに金をつぎ込んだ方が有意義なのではないか,という気になっている.

 という事で,ボクシングジムでも探しに行きたい.何かとこの方面にお詳しい方がいらっしゃればコソコソと教えて頂けると光栄である.地元もしくは中央線沿線で探したい.どうでもよいが,こういう時にTwitterを持ち合わせていない事の不便さを感じる.Twitterやりたい.でもやりたくない.どうしよう.

 

生きるだけで

疲れる.生存という生物にとって自明の行為自体に苦痛を感じる.生きる事に向いていない生物とは,生物なのだろうか.私とは一体何者,いや,何であるのか.

 

長い物に巻かれたい

長い物に巻かれて生きていきたかった.海苔巻きの海苔の内側で押し潰される一粒の米になりたかった.押し潰された私という存在が,誰かの胃袋を満たし,彼がこの世を生きる気休め程度のエネルギーへと姿形を変える事に対し,幸福かつ満ち足りた気持ちを抱く事が出来るメンタリティーを持ち合わせた人間になりたかった.

私という存在は所詮どう足掻いても社会的異分子に過ぎないようなので,仮に血の滲むような努力をして長い物に巻かれたフリを試みたとしても,いつの日にか不自然極まりない「この仮面」を引っ剥がされる時が来るであろう.狭苦しい巣の中で親燕の帰りを待ち続ける子燕のように,ピイピイパタパタと羽を震わせながら,審判者によって有罪宣告を受ける日の到来に胸を膨らませる毎日.「被告人を死刑に処する」と審判者が告げた瞬間,私はそこに"ある種の救い"を見出すであろう.

ビッグ・ブラザーから逃れる場なんてこの世には無い.皆が私を見ている.私も私を見ている.私は皆が嫌いである.そして私自身も嫌いである.私の敵は紛れようもなく私であり,私は私という存在から逃れ得る一切の可能性をこの手に握る事に関心を注ぐのみである.ジョッキに並々と注がれたビールを飲み干し,ジョッキを床に投げ付ける事.胸の大きなウエイトレスが新たに運んできてくれたジョッキに対し,同様の動作を延々と繰り返す事.そうしている内に,酔いが回ってこの世の全てはどうでもよくなってくれるはずである.

「この世の全てがどうでもよい」と感じる事.やっぱり長らく私に纏わり続ける「この愛すべき感覚」を,私の唯一の武器とする事が肝要なのかもしれない.海苔巻きの海苔の内側で押し潰される一粒の米になれないのであれば,この私が海苔巻きを鱈腹平らげてやればよいのである.喰われる前に喰うという事.スピードで勝負するという事.加速に加速を重ね,エネルギーが凝縮した一つの点になるという事.こうした姿勢で生きていきたい.

 

太った豚よりも痩せたソクラテスの方が

マシではない.長い目で見れば太った豚の方がマシである.

 

「種なしブドウ」という表現を耳にすると

何故だか笑いが止まらなくなってしまう.これは病気なのかもしれない.種なしブドウ病である.不謹慎極まりない事は百も承知であるが,残念ながら私のツボは不謹慎な傾向を帯びたものに反応する仕様であるらしい.蛭子能収には,知人の葬式で笑ってしまうエピソードが存在するが,私も全く他人事ではなかろう.私だってモンティ・パイソンを見てゲラゲラと笑ってしまう人間に育ちたくなかった.父上,母上,申し訳ございません.私はゆとり教育の失敗作です.要するにだからモテないのであろう.

バイト先の売り場いっぱいに響き渡る「種なしブドウ,ご試食いかがですか.種が無いですよ.甘くて美味しいブドウです.種が無いので食べやすいですよ.どうぞ~.」という試食販売のコールに対し,無限にこみ上げてくる笑い.まるでマグマである.唐突に,何故か『太陽肛門』に登場するイエス・キリストとヴェスヴィオ山を掛け合わせたバタイユの造語「イエスヴィオ山」が脳裏に浮かび,更に笑いがヒートアップする.笑いの突沸.カップラーメンも無いのに湯を沸かすのは阿呆だね.ただの阿呆だ.

 

最近の気分を曲で表現してみると

これ.

youtu.be

 

以上.陽気にやっていきましょう.