戦略的にグレるという事

 

髪を刈り上げにし、ピアスを開けた

先日、髪を刈り上げにし、更に右耳に二箇所、セルフでピアスを開けた.

個人的には行為そのものに意義を見出しているのであり、似合う/似合わないという観点は特に問題視していない.

念の為に付言しておくが、いまさら大幅に遅れて反抗期が到来したという訳ではない.理由なき反抗は美しくない.反抗にはそれ相応の筋の通った理由が存在すべきである.和辻哲郎は「予は知れるかぎりにおいて生れながらの反逆者であった」と自己を表現したが、私にもそれに共鳴する部分は無きにしも非ずである.毎日が反抗期である.我反抗す、故に我在り

 世界には主人と奴隷という二者しか存在しない.究極的な状況において自己の生命と他者の生命を天秤に掛ける事を強いられたとすれば、私は私の生命を選ぶ.浅薄な平和というぬるま湯に漬かり切って他者に殺される事、それは翻って他者という確固たる存在への冒涜である.

他者への配慮、同情、優しさ.こんなスッ惚けたものは不要である.ヤマアラシヤマアラシ同士、互いの肌を針で傷付け合い、自身の痛みを各々固有のものとして受容し、痛みの共有不可能性を基に手を結ぶべきである.我と汝の対峙、そして真の意味での優しさ、それは私と他者の間に横たわる深淵を直視する事である.

だから私は私にとって常に主人でありたい.これが私なりの反抗である.髪を刈り上げにし、ピアスを開ける事.それはこの戦略の細やかな一部である.

 

記号の攪乱、肉体的苦痛

断髪行為に関して

女性性と男性性を始めとする二項対立を、止揚させる事なくそのまま同じ鍋の中に放り込んだまま徹底的に放置したかった.それを自分の身体で表現してみたかった.

理論を頭の中で弄ぶ事は比較的容易だが、それを実践の場に移す場合には別種の困難が付き纏う.理論と実践の間に存在する壁に目を凝らし続けるのも興味深い試みではあるが、一先ず自分の手の届く範囲から川に石を投げ込む事にした.

自分の身体の中で手軽に弄れる上に、自分に対して向けられる他者の眼差しを手軽に変化させる事が出来る部位といったらもう髪ぐらいしかなかろう.

生を営む限り、私は半永久的に記号の暴力に脅かされ続ける.私は他者が規定する「何者であれ」という命令から背を向ける事が出来ない.私は私が本質的に規定され得ぬ存在である事を知っている.しかしながら規定、それは私の身体、そして精神を無慈悲に切り刻み続ける.

この痛みに安住し続けるぐらいならば、この痛みを逆手に取り、自己の外見のイメージを自分自身で構築する事で他者による規定から先手を打った方がまだ救いが存在するのではなかろうか.あらゆるメタな法の脅威、世界という混沌から自己を防御する為には、自己固有の法を固持するしかない.

私はムルソーになりたかった.常に曖昧であり、融通無碍であり、世界に対して異邦人でありたかった.だから髪を刈り上げた.

 

ピアッシングに関して

両親から授かったこの肉体に穴を開ける事で、自然という完全性を荼毘に付したかった.不完全性に身を置く事で、創造性の本質に触れたかった.自分自身の身体を棄損する行為に手を付ける事は、私にとって一種の義務であろう.

なお、ピアッシングに関しては、病院で施術してもらうのではなく、セルフで行う事に決めていた.

他者に私の肉体的苦痛までをも奪われてしまったら、窮極的な意味で私は私の自己性を何処に見出せばよいのであろうか.そんな問いを脳内に抱え続けていたという事もあり、自己の肉体を実験台にして一歩問いを先に進めてみたかった.

折角なので、私の敬愛するアルトーの言葉を、ここで少し引用しておこう.

麻薬に関する法律は、公衆の健康の監督官つまり簒奪者の手に、人間の苦痛を自分の思い通りにする権利を委ねるものだ.自分の義務を各人の意識に強制しようとするのは近代医学の奇妙な自惚れである.公的決定のあらゆるわめき声は、この厳然たる自覚に対して何の効力ももたない.つまり私は、死の主人である以上に、私の苦痛の主人なのだ.あらゆる人間は、自分が率直に耐えうる肉体的苦痛の、あるいはまた精神的空虚の量の裁判官であり、唯一の裁判官である.

明晰であれ不明晰であれ、どんな病も奪うことのできない明晰さがある.それは私の肉体の生の感情を私に命じる明晰さだ.

 

 -A.アルトー「冥府の臍」(宇野邦一(2011)『アルトー 思考と身体』白水社, pp.75-76より宇野訳を引用)

 それ相応の痛みを期待して自らピアッシングを行ったものの、大した痛みは感じられず、正直落胆している.実存を感じる為には痛みは強ければ強いほどよい.

もっと痛みが欲しい.この欲に素直なまでに愚直な人間は、巷で流行りの身体改造なりトランス・ヒューマニズムに耽溺する事になるのであろう.恐らく、私と彼らの間のスタンスには大した差異は存在しないように思われる.要は実践の強度の問題である.

 

「人は外見ではなく中身」なのか

さて、以上のように私は外見をいわば社会的には負のベクトルへと弄ってみた訳であるが、ここでもう少し外見と内面の関係性について考えてみる事にしよう.

なお、ここでの外見とは「人の見た目」という狭義の外見のみならず、記号一般という広義の外見をも念頭に置いている.

 

以前、ある人物Aが自身の髪を奇抜な色に染め上げている理由を耳にした事がある.当のAの主張の概要は以下の通りである.

  • 外見という表象に人間的な価値判断の重きを置く人間は、奇抜な髪の色をした『わたし』と直面した時点で、『わたし』に対して社会的に負のレッテルを貼り付ける.そのため、そのレッテルを通じた形式でしか『わたし』と接しようとしない.しかしながら、そうでない人間も中には存在する.『わたし』は外見を武器に、外見で人間を選別する者を選別し直すのである.
 
  皆はいとも容易く「ひとは外見ではなく中身が大事だよ」と口に出す.
本当にそうなのであろうか.
少なくとも私は、ひとの純粋な中身を直視出来た記憶すらない.
 
自我の自我の自我の自我…

私は、あらゆる種類の記号を帯びている.顔、性、人種、学歴、収入、家族構成など、その例は枚挙に暇が無い.私とはあらゆる記号を纏ったいわば記号の塊である.記号という記号の全てをはぎ取った時、そこには何が残るのであろうか.

われわれが自分の自我ー自分の思想、感情、もしくは本能ーだと思っている大部分は、実に飛んでもない他人の自我である.他人が無意識的にもしくは意識的に、われわれの上に強制した他人の自我である.

百合の皮をむく、むいてもむいても皮がある.ついに最後の皮をむくと百合そのものは何にもなくなる.

われわれもまた、われわれの自我の皮を、棄脱して行かなくてはならぬ.ついにわれわれの自我そのものの何にもなくなるまで、その皮を一枚一枚棄脱して行かなくてはならぬ.

 

大杉栄(1915)「自我の棄脱」

 

 自我の皮を棄脱し、純粋な自我、即ちゼロに還帰する事.

そう.私はゼロへの還帰、破壊、ダダである事を願ってやまない.

しかしながら、ゼロへの還帰とは主体の死*1に他ならない.私という個の意志には関係なく、私が生命体である限り、死に至る一歩寸前で踏み留まらざるを得ない事は自明である.これは一種の思考の限界を意味するものであろう*2

 

再度問う事にしよう.「ひとは外見ではなく、中身」なのであろうか

いや、問いの角度を少し変えよう.ひとに中身は存在するのであろうか.

 

根源的な私、それはゼロだ.それは厳密には私であって私でない.私はそれを私と呼ぶ事が出来ない.それは「お前は私であるか」という呼びかけに沈黙する事も、応答する事も可能であろうが、私はその微細な応答を聴き取る耳を恐らく持ち合わせていない.

現に今キーボードを叩く私、それはこのゼロの上に記号という仮面を被せた、仮面の二乗に他ならないのではなかろうか.

虚数」という数がある.二乗すると、マイナスになってしまう、おかしな数だ.仮面というやつにも、似たところがあって、仮面に仮面を重ね合わせると、逆に何もかぶっていないのと同じことになってしまうらしいのである.

 

安部公房(1997)『他人の顔』新潮文庫,p. 111. 

ゼロという根源的な私、それは捕捉しようにも捕捉し得ないが、仮面を仮面として顔に貼り付けるある種の不可視の力である.それはゼロではあるが、空虚という意味のゼロではない.寧ろ諸物が充満した根源である*3

だから、この世界で他者と対峙する場合に現れる私、それは自他を区分する仮面そのものである.本質的なものが宿る場所、それは表層に違いない.

はっきり言ってしまおう.ひとには中身なんて無い.強いて「中身たるもの」を言語化すれば、それは仮面が作り出した何らかのものだ.

ひとは中身ではない.ひとは外見がすべてである.仮面、それは私である.

 生とは仮面を被り続ける事である.仮面からの遁走は死である.

だからこそ、この仮面が内包する取り憑きの魔力を積極的に利用し、私の意に反する仮面が私の仮面に泥を塗る事にノンと叫ぶために新たな仮面を能動的に形成する事、いわば先に示したAのように外見のグレを戦略として活用していく事も悪くは無かろう.

 

グレるという能動的戦術を武器にしていく

人生は短い.メメント・モリ

今日の私は昨日の私とは別人格であるし、恐らく明日の私も今日の私とは様相を異にするであろう.同様に、今日の私の生が明日も自明であるとは限らない.

だから変に萎び切った連帯だの絆だのを結んで意味も無く他人と仲良く迎合する暇なんてありゃしないのである.本来的な連帯、それは個が個として在る事である.そうした形態に基づかない嘘っぱちの連帯なんぞ、知らんがな.勝手にしやがれ

手紙にくらべると、人間が直接に舞ひ込む方がまだよつぽど始末にいい.人間の方だと僕はどんな人間だつて追ひ帰すことはしない.ともかくも会つて見る.けれども僕はそんな人間によつて得をしようと心掛けないから従つて彼等の機嫌をとるやうな必要はない.[中略]僕はどの人間が目の前にゐてもその人に左右される事なしに、偶然そこに居合わせたぐらゐに心得て、僕のその時折の気まぐれを主観的な気持ちをそのまま吐出したり行為したりすることが出来るやうになった.これがまた自然に大変にいい対訪問者術であることがわかつた.即ち初対面で僕といふ人間をムキ出しに発表してしまふ事になる.それで愛想をつかした人間はもう二度と再び僕の面前へは現はれない.それでいいのだ. 

 

佐藤春夫高橋新吉のこと」高橋新吉(2003)『ダダイスト新吉の詩』日本図書センター

 外見を戦略的にグレさせようが何しようが、この外見の私は私の全てである.嘘偽りのない、ムキ出しの私である.変に繕ったって後々化けの皮は剥がれてしまう.だったら最初から変に気負わずムキ出しでいればよいのである.それでいいのだ.

政治と宗教*4が嫌いで、酒と女と文学を心から愛するような、真の意味で澄み切った綺麗な目をしたひとたち.そういった少数のひとたちと腹を割って話せればよいと思う.万人に好かれても疲弊し切るだけである.私はどうやらごく一部のひとたちしか好きになれないらしい.

物事は、わかるひとたちには届くものである.時代なんて関係無い.

わかるひとたちに、精一杯の愛を込めて.

 

*1:ここで私が真に主張するゼロとは、主体を主体たらしめる何らかの力であり、主体の成立と不可分なものである.

*2:大杉が主張したが如く自我の皮の全てを棄脱する事を目論むのではなく、ゼロと皮の拮抗関係、そして皮そのものに徹底的な反省の眼差しを向ける事.カオスに呑まれる寸前で足を踏ん張る事.真に探究すべきはこの視点であろう.

*3:仮面とゼロは分離不能である.要するに、ゼロが存在するが故に仮面は仮面として成立し得るのであり、ゼロの消滅は仮面自体の不成立に至る.

*4:物事を最終的に突き詰めた際に到達する問題系は恐らく宗教なので、確かに私は宗教が嫌いであるが知的対象としての宗教に関しては別である.